012考えなければならないこと

松下至道

東日本大震災が発生してから1ヶ月以上経過しました。被災地では余震が頻発し、福島第一原発も予断を許さない状況です。復興に向けての歩みは始まっていますが、まだまだ落ち着かない日々が続いています。

今回の震災による死者・行方不明者は合わせて2万8千人超で、その数はまだ増えるだろうと言われています。また、無事だった方々の多くは家や仕事を失っており、その被害は計り知れません。マスコミは「未曾有」とか「国難」という言葉で表現していますが、まさにそうだと感じます。

そんな中、震災に対する義援金が阪神大震災時の3倍のスピードで集まり、莫大な金額になっているとの報道を耳にしました。コマーシャルやテレビ番組には「がんばろう日本」というフレーズが溢れ「オールジャパンで」という台詞もよく聞かれます。

日本中が被災地に対する善意で満ち溢れていると実感しました。日本中に広がる善意は、素直に凄いことだと思います。私自身も映像を見てショックを受け、自分のできることはするようにしているつもりです。

しかし、少し立ち止まって考える必要があります。善意あるいは正義というのは大切なものです。ただ、善意や正義は否定しにくい分、推し進めていくと、自分の善意や正義に合わない相手を切り捨てていく要素があります。

特に、集団の共有するものとなった時、多数が少数が持つ意見や思いを踏みつけ排除し、自分たちに従わせるための強力な武器となる危険性を持っているのです。

今回のように「国難」といわれるような場合、善意は一つに集まります。善意に応えられない人や、善意を出せない人が非難される環境になりやすいのです。それはとても怖いことです。

善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。(中略)、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。(真宗聖典640~641頁)

と親鸞聖人は仰せになられました。人間が言う善も悪も立場や状況が違えばコロコロと変わり、善意や正義がいつでも相手を傷つけ争いの種になり得るのだということを教えてくださっていると思います。

それは、聖人の言われる通り、人間の作り上げた社会には真実がないことを絶対とすることなく、常にお念仏に聞いていきなさい、と教えてくださっていると思います。

011私はどこに行こうとしているのか

米澤陽子

東日本大震災の影響で、真宗本廟では3月中の宗祖親鸞聖人御遠忌法要が中止となり、「被災者支援のつどい」が執り行われました。私は参拝を予定されていたご門徒のみなさんと共にお参りさせていただきました。

宗務総長は、ご挨拶の中で原子力発電所の深刻な事態について、「このような凄惨な事故を生み出す原子力発電所に頼る生活を営んでおりますのは、ほかならない私たちであります。改めて、一人一人が原子力に依存する現代生活の方向というものを考え直さなければなりません。進歩発展を疑ってもみない私たちの日頃の心の無明性を厳しく教えてくださるものは、如来のはたらきにおいてほかにございません」と述べられました。

思えば上山する途中に立ち寄ったサービスエリアで入ったトイレの便座が冷たくてムッとするような私です。家が明るく、部屋が暖かく便座までもが温かいのは原子力のおかげだと深く考えることもなく、便利で快適な生活という幻想を追っていたのです。便利で快適だと感じることしか求めず、その根本にある原発の危険性については見ようともしていなかったのです。次から次へと登場する「便利」「快適」のイメージに追われるばかりで、何のために便利で快適な生活を求めているのかということを考えたことがありませんでした。

御遠忌法要についても、それが何のために勤められるのかもよく考えず、「50年に一度のお祭り」のようにしか受け取っていなかった私ではなかったでしょうか。御遠忌を賑やかで華々しい行事としか考えておらず、御遠忌に遇うことの意味も問わずにいたことを、この度の「被災者支援のつどい」に参加して初めて教えられたような気がします。

「現代生活の方向性」なんて問題にすらしていなかった私。この「つどい」でいただいた「私の生活がどこに向かっているのか」、そして「私はどこに行こうとしているのか」ということをこれからのテーマとしていきたいと思います。

010桜の季節を迎えて

山田恵文

4月は入学の季節です。私が勤める大学においても、たくさんの新入生を桜の花が咲きほこる中、迎えることになりました。おそらく新入生の方々は、これから始まる未知の世界を前にして、多少の不安を抱えながらも、期待で胸が一杯であるかと思います。そのことは迎える側である私自身も同じです。これから始まる新たな出遇いを前にして、晴れやかな気持ちで新年度を迎えています。

しかし、今年は例年と少し趣が異なるようです。それは先月に起きた東北地方の大震災の影響です。地震とそれに伴う津波と災害によって、多くの方が犠牲となり、今もなおたくさんの方が、深い悲しみと不安の中で生きることを余儀なくされています。連日報道される被災地の状況と人々の姿を見ていると、あまりの無惨さにかける言葉も見つからないというのが正直な思いです。

さて、親鸞聖人は9歳を迎えた春の季節に、京都東山の青蓮院において出家をされました。その時のエピソードとして次のような話が伝えられています。青蓮院では天台宗の高僧である慈円の世話の下、出家をします。しかし、もう日暮れでありましたので、慈円は出家の儀式は明日にしましょうと提案します。それに対して、親鸞聖人は和歌を詠んで自分の思いを述べられたというのです。

明日ありとおもうこころのあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

たいへん有名な歌でありますから、ご存知の方も多いと思います。「明日があると思っていたら、その思いがあだになってしまう、夜中に嵐がやってきて桜の花を吹き散らしてしまうかもしれないから」このような歌を詠みまして、親鸞聖人は明日ではなく、今すぐ出家したいと自分の思いを述べられたのです。

親鸞聖人のこのような強い決意と覚悟を知って、すぐに出家の儀式が行われたと伝えられています。これはあくまで伝説ではありますけれども、親鸞聖人に思いを寄せる人々は、この歌を通して、人生の意義を問う歩みを出発された親鸞聖人の尊い姿を仰いできたのです。

今回の震災において、私たちは当たり前のように生きているこの生活が、一瞬にして消え去ることさえある「無常」の世界を生きているのだという確かな事実を突きつけられました。その中で、自分が生きるということはどういうことであるのか、今、現実から問われていると思います。この季節、親鸞聖人の出家の姿に思いを致すことによって、人生の意義を問う歩みを一日一日進めていきたいという思いを改めてもったことです。

009奪われることのない命

大橋宏雄

東北地方・太平洋沖地震により被災されたみなさまに謹んでお見舞い申し上げます。

日頃聞法する中で、私たちは「明日にも死ぬ身を生きている」ということを教えられていながら、なかなかそのことが自分のこととして受け止められないということがあります。しかし、今、地震や津波に始まり、今も続いている様々な災害によって、そのことが実感として突きつけられているように感じます。ところが、その実感は自分の死というよりも、むしろ身近な人の死というところにあるように思います。

関係を生きている私たちにとっては、たとえ自分が助かっても、身近な人の安否が分からなければ助からない思いがあるのではないでしょうか。また受け止めがたい「死」に対して「命が奪われた」と表現される時、そこには私たちの無力さが思い知らされます。

しかし、同時に命はただ奪われていくだけのものなのかということも思うのです。人が死んでいくということは、ただ失っていくだけのことなのでしょうか。私はそれだけではない、それだけでは言い尽くせないことが、命ということにはあると教えられてきたように思うのです。

亡くなられた宮城顗(しずか)先生は「死ということは生の否定じゃなくて、死もまた命の営みなんですね。死というのは命が無くなることじゃないんです。命が無くなることを言っているのではなくて、生死共に命の営みです」とおっしゃっておられます。

それは一人一人の人生ということだけではなく、その一人一人を包んであるような命の営み、命の営みとなるような命なのでしょう。それは決して奪われることのない命であり、またその営みによって「生きること」が私たちに与えられていく、そういうことが言えるのではないでしょうか。

そして、そのことが感じられ確かめられるところに、まるで全てを砕くような現実の中にあって「生きること」を見失わせないものがあるのではないかと思います。

008弟

稲垣香織

毎年この3月は、春の到来を嬉しく思う一方で、胸につまされる季節でもあります。私は5人姉妹の真ん中で育ちましたが、5歳下の末の弟が亡くなったのが、ちょうど15年前の3月でした。野球や駅伝で体を鍛えていた弟が、高校入学後に発病し、明るい未来を語っていたその生涯を17年で終えるとは、想像もしないことでした。

姉弟の中でも気の合う弟でしたので、闘病中はできる限り彼の傍らにいたいなと思いながら過ごしましたが、治療が辛さを伴って進む中で、彼の「どうして僕が…」という問いを発する場にも立ち会わなければなりませんでした。彼の問いは、即ち私の問いでした。その問いの答えを見出せないまま、お浄土へ送りました。

弟より少し前に父が亡くなったのですが、勝手なもので、その悲しみはどこか「親だから当然」という覚悟が前提にあったのでしょうか、弟とは違いました。弟の死は言葉にできないような辛い悲しみでした。

その悲しみの事実を受け止められない日々を送っていたある日、知り合いのお寺を訪ねた際に、廊下に掛けてあった歌に出遇いました。

なき跡に 我をわすれぬ 人もあらば ただ弥陀たのむ こころをこせよ 兼寿

後に分かりましたが、これは蓮如上人がお詠みになった歌で『帖外御文』に収められているものです。私はこの歌を目にした時に、ハッとしました。私には亡き弟からの呼びかけ、願いに聞こえたのです。

「どうして僕が…」という問いを抱えたまま、日々を悲しみで過ごしていた私に、「ただ弥陀をたのむこころをこせよ」と願ってくれる存在としての弟と出会えたのだと思いました。御はたらきとして、私の中に弟が願いとなって生きていることを感じたのです。そのはたらきが、私の歩みを問い、また励みとなっているのだと思います。

完全燃焼してくださった17年の生涯は、本当に尊いご縁でした。先人のお念仏の歩みから、弟との新たな出会いの意味を教えられたことです。

007生まれてきた意味

川瀬智

先月、NHKの番組で「風をあつめて-難病の子を抱える家族の絆を描く-」という放送がありました。2人の筋ジストロフィーの娘との生活の中で、いつしか幼い命に自分たちが生かされていることに気づいていく夫婦の姿が映し出され、私に深い感動を与えてくれました。

この番組の原作が『雨のち曇り、そして晴れ-障害を生きる13の物語』(NHK出版)という本にあるということで、早速図書館で借りて読みました。

浦上誠27歳と浦上攝(せつ)25歳は、ごく普通の夢を胸に抱き、新しい家庭を築くべく結婚しました。そして、1年3ヶ月後、めでたく女の子が生まれ、一般となんら変わらない新家庭の楽しい毎日が始まりました。ところが、杏子(ももこ)と命名されたその子は、検査の結果、「治療法もなく、一歩も歩けず、生きても高校生くらいまで」という筋ジストロフィーと診断されるのです。

「杏子には、生まれてきた意味なんかない。体の自由はなく、言葉も話せず、寿命も短い。なぜ生まれてきたのか。親を苦しめるために生まれてきたのじゃないか」と父は思います。

そして、5年後、健康な子どもが欲しいと、2人目を出産しましたが、杏葉(あんな)と名付けられたその子も、筋ジストロフィーを持って生まれました。

「杏子も杏葉も私たちを親として選んで生まれてきたのだと思っています。もし、他の夫婦だったら殺していたかもしれないと思います。事実、私たちも何度殺したいと思ったか分かりません。今でも、一瞬首を締めたくなる時があるのです」と父が語るように、我が子の首に手をかける場面が、テレビでも描かれておりました。しかし、娘さんとの苦悩の生活を通して父親の心は変化していきます。

「今では、子どもたちが私の人生の師となっています。杏子9歳、杏葉4歳。苦労したというにはまだ短いかもしれません。これから、もっと辛いことも待っています。しかし、子どもたちは、私に素晴らしいものの見方、考え方を教えてくれました。それは『現状は自分がどう感じようと、どんなに落ち込もうと何も変わらない。しかし、お父さん、あなたがものの見方・考え方を変えれば全てが変わります』ということなのです」

さて、『仏説阿弥陀経』には、「一切諸仏諸護念経(一切の諸仏に、護念せられる経を信ずべし)」と、阿弥陀仏の尊い心が表現され、全ての私の環境、私と同じ時代を生き、生活する全ての存在は、念仏でしか救われない私を教えてくださるハタラキだと説かれております。

浦上誠さんは、病気である2人の娘さんを通して、私自身のものの見方、考え方の不純性を教えていただいたのだと思います。自分の都合に合わない子であればこそ、その事実を通し、我が子を2人の師としていただかれたのだと感じたことです。

006名前

日野泰通

先日、学生時代の先輩と会う機会がありました。その先輩とは毎年年賀状のやり取りはしていましたが、話をするのは結婚式以来、4年ぶりということもあってか、学生時代の思い出話や近況報告で盛り上がりました。

そんな中、話は先輩の子どものことになりました。名前は「知果帆(ちかほ)ちゃん」といいます。由来を聞いてみると、「知」は「知る」という字で、新婚旅行で行った知床半島から一字を採り、知床半島みたいに大らかに育って欲しいという願いを。「果」は「果実」の果という字で、実り多く健やかに育って欲しいという願いを。そして「帆」は、船のマストを意味する「帆」という字で、大海原を進む船のように堂々と強い子に育って欲しいという願いを込めて名付けられたのだそうです。その話を聞いて、子どもを思う先輩の熱い気持ちが伝わってきて、胸を打たれました。

親鸞聖人は生涯で名前をとても大事にされていました。聖人は「綽空」「善信」「親鸞」と何度か名前を変えられています。それらの名前が使われていた時代については諸説ありますが、いずれにせよ、付けられた名前にはそれぞれ願いがあったように思います。法然上人がお付けになられたのなら、法然上人の親鸞聖人への願いがあり、聖人がご自身で付けられたのなら、自分がこれからどう歩みたいのか、何を大事に歩んでいきたいのかという願いが込められているのではないでしょうか。

名前にはたくさんの願いが込められています。しかし、普段の生活の中で自分に掛けられている願いを意識することがあるでしょうか。恐らく、ほとんどの人が掛けられている願いを意識せずに、また願いと共に歩んでいることを忘れているのではないでしょうか。

私は毎朝、教務所のお朝事で、御本尊に手を合わせ、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えていますが、私たちに掛けられている願いを思い出させ、気づかせてくれるものが「お念仏」ではないかと思います。

「お念仏を称える」ということは、「仏の願いを聞く」ということです。即ち仏の願いを聞くことで、私たちに掛けられている願い、自分の歩みが問い返され、確かめられていくのではないでしょうか。

005自然からの回答

金津正嗣

若い頃から自然農法に興味があり、福岡正信さん、岡田茂吉さんの本をよく読んでいました。定年後、農薬、除草剤、元肥を使わない農業を始めましたが、現農政の減反政策で、作付も半分ほどに制限されてしましました。

また、自然栽培は土作りもしなければならないので、とにかく時間がかかります。ですから、2割から3割、ひどい時には4割の減収のリスクがあり、需要に対して供給できないという現実がある訳です。この栽培を始めて3年が経ちました。

「医療同源」という言葉がありますが、食と健康と農業にはたいへん大事な関係があると思います。

現在、商品としての農作物は規格化され、同じ大きさ・形のものが店頭に並べられますし、一年間を通じて同じものが手に入ります。そこには、そのものの旬はありません。50年前の野菜の成分と今のものとを比較すると雲泥の差があると聞きます。まさに、私は、昔栽培されていた質の高い野菜を作りたいと思っております。

2006年12月のNHK「プロフェッショナル」という番組で、青森のりんご農家・木村秋則さんの話が放映されました。

木村さんのりんご栽培は、肥料を与えない無肥料栽培です。栽培当初は8年間もりんごの花が咲かなかったそうです。それは、それまでの化学肥料や残留農薬などを土の中から消して、土を浄化するための時間であったと思います。そして、虫や病気の原因は肥料の質にあるということが私なりに理解できました。

「肥料をやらなければ植物は育たないと思っていた今までの考え方は固定観念だ。それを壊さなければ、自然からの回答メッセージを見つけることができない」と木村さんは言われます。

「作物は肥料で作るもの」「人間は栄養を摂ることで健康なのだ」ということが常識であると私は思っていました。「作物は自然の循環の中で育ち、人間は、本当の自然の恵みの中で育ったものを食していれば薬も要らない」と受け止めた時、目からウロコが落ちたようでした。

「本当のものが分からないと、本当でないものを本当のものとしてしまう」という安田理深先生のこのお言葉をいただきますと、本当でないものを本当のものとして生きてきた私の生き様について考えさせられます。

004痰のつまりし仏

桑原範昭

司馬遼太郎の『坂の上の雲』を見た。明治の小国・日本がやがて欧米列強と肩を並べて発展していく時代を描写している。四国・愛媛の松山で幼なじみであった3人の若者たちが切磋琢磨し、やがて、それぞれ将来の夢に向かってゆく物語だ。

一人は日露戦争でバルチック艦隊を打ち破った日本の連合艦隊の作戦司令参謀、秋山真之。そして、日本陸軍の騎兵隊を組織し、ロシアのコサック兵団を打ち破った真之の兄、秋山好古。そして、もう一人は俳人の正岡子規である。

私はなぜか正岡子規の生きざまに心打たれた。彼は夢破れ、痛ましい身の境遇にのたうちまわり、不運な人生を生きる中にありながらも、自ら選んだ俳句の世界に新たな革新の息吹を吹き込んでゆくのだ。

結核という当時不治の病に侵されながら、苦しみの絶えつつも、たくましく生きようとする姿は悲壮的でさえあった。わずか34歳という若さで亡くなるのだが、その無念さはいかばかりであったろう。苦悩の自分をごまかすことなく、泣き、叫び、恨みつらみの限りをぶちまけながらも、新しい俳句の世界を切り開くという一大仕事を成し遂げてゆくのだ。

自分の病床から見える庭だけが彼の全宇宙であった。絶望のただ中、彼の光となったものは俳句を作るということで、それが今を生きるということの唯一の証しだった。

彼が後にしみじみ述懐していることがある。それは、人間の救いとは心おきなく死んでゆけることと思っていたが、そのことは間違いであった。人の救いとは、身の境遇がいかなる状況であろうとも、平生に生きておれるということだった、と。いつも苦しみから逃げて楽を求めようとする私にとって厳しい言葉である。

へちま咲きて 痰のつまりし 仏かな

これは彼の辞世の句である。救われるということは、もう楽にならなくてもよい、と言えたことなのかもしれない。そういえば、真宗の教学者、安田理深氏は「穢土に悠々と居れる世界を浄土という」と言った。「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」の句を歌った時、子規はどんな心境だったのだろう。

003いのちの電話

池井隆秀

昨年のある日のことです。突然名も知らぬ方から電話が入りました。「もしもし、私、今から命を断とうと思います」と。その方は半分泣き声で、所々激しい嗚咽が混じりました。電話に出た私の方は言葉に詰まりました。何をお話したらよいのか。「どうしてなのですか」と聞くのがやっとのことでした。その方の質問は次のようでした。

「私は今から命を断とうと思うのですが、私が死んだ後、私が面倒を見てきた亡き父とおばさんの位牌はどうなるのでしょうか」

途切れ途切れに聞こえてくる声から、その方の家庭の中で大きな問題を抱えて苦しんでおられる様子が窺えました。

「私は今まで誰にも気づかれないように苦しさに耐えてまいりました。そして、一人で一生懸命に頑張ってきました。しかし、もう限界です」

このような電話を前に、何一つ答えることができない自分がありました。その時、ふと浮かんだのは『がんばらない』の著者・鎌田實氏の言葉でした。「今まで充分に頑張ったのだから、悲しいなら我慢しないで大いに泣いたらいいじゃありませんか」このようにお話した時、その方は「今までそんなことを言ってくれた人はいませんでした」と、少し落ち着きを取り戻されたようでした。

「あまり無理をしないで、“いいかげん”の人生を歩まれたらどうですか。お風呂の湯加減がちょうどいい加減というように。そうすれば、あなたの気づかないところで、あなたを必要とされる方が必ずいらっしゃるはずです…」

30分ほどの電話でした。法要の約束が入っておりましたので、どうしても電話を切らなければなりませんでした。「必ずもう一度お電話してください」とお約束してお別れいたしました。

世の中には同様の苦しみに遭っておられる方もいるかと思います。また、私もいつそのような苦しい出来事に遭遇するかもしれません。そのためにも、私たちが生きることを根底から支えてくださるものに出遇うことが願われているようです。苦しみのどん底におられるその方が、その苦しみを縁として大きく成長され、同じような悩みを抱える多くの人たちに力を与えられるような方に変わってくださるのでは、と思ったことでした。

電話があった日から数カ月が経った昨年12月に、その方が当寺を訪ねて来てくださいました。苦しみの中に身を置いておられる事実を背負いながら、新たに歩みを始める勇気をいただかれたようです。本堂でお話しできたことに感動でした。