035「いのち」のご用

中川和子

「ご用をいただく。そのご用をいただくということが助かるということなんです。ご用がみんななくなって楽になって助かるんでないんです。限りのないご用を、どこまでもどこまでも生涯をかけていただくということが、それが恩徳である。真宗に遇い得た恩徳ですね」

これは、私がこの7月に住職となり、その任命記念にいただいた和田稠(しげし)先生の本のお言葉です。(『真宗門徒』和田稠1999年4月26日住職修習講義録)

私は、毎回お寺の行事の後は、やっと終わったと思い、子育てやいろいろなことがいつ終わるかをお風呂につかりながら計算している、そんな毎日ですが、その中で、不安ながら、終わらないご用を引き受けて生きていく覚悟をいよいよいただいた思いです。そういう不安の中で、みんな誰でも、それぞれのご用を引き受けて生きてみえるのだと思います。和田先生のお言葉からそれを教えていただきました。

先日、自坊の華方さんに、自宅の庭のバナナの木の株分けを頼まれました。今まで、バナナの実が成ったのは一度だけだとお話したら、バナナの花は、青くて丸い実のようなものなので、それと気づかず、葉と一緒に落としてしまっていたかもしれないと分かりました。「必ず一人前にならないと実はつかないんですよ」と言われた時、ふと総代さんの奥さんが衝立(ついたて)に書かれていた金子みすずさんの詩が頭に浮かびました。それは「木」という詩です。

お花がちって実がうれて、その実が落ちて葉が落ちて、それから芽が出て花が咲く。そうして何べんまわったらこの木はご用がすむかしら。(『金子みすず詩集』)

私は、すぐ傍らで毎年懸命に咲く花のご用も知らず、周りの数多のご用も見えていませんでした。蓮如上人は、「如来・聖人のご用にもるることは、あるまじく候う」「みな、御用なり」とおっしゃられておられます。(「蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』 真宗聖典914・915頁)ご用は私の思いを超えて、存在する全てのものにありました。

今年も早、12月半ばとなりました。毎日毎年の繰り返しの中、庭のバナナの木や近所のみなさま、ご門徒様、そして家族と「今、ここ」で「共に生き」ているという、このたった今が、私のご用の現場です。

実際の私は、終わって楽になることばかり考え、しんどい今を嘆く毎日ですが、親鸞聖人は、そんな私とバナナの木が同じだということを、「帰命無量寿如来」「いのちの如来」つまり「いのち」が同じと教えてくださっているのだと、また、みんな「いのち」のご用をいただいていることを蓮如上人、和田先生、私にまで届けてくださったのだなぁと思い、「報恩感謝」の歩みを私も子どもたちや後に続けていく一人になれたらと願っています。

参考 和田稠『生死出ずべき道』(東本願寺出版部)