023極重悪人(ごくじゅうあくにん)

酒井誠

『正信偈』の源信僧都(げんしんそうず)を讃えられたところに、

極重の悪人は、ただ仏を称すべし、我また、かの摂取の中にあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて見たてまつらずといえども、大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたまう、といえり(真宗聖典207頁)

とあります。

極重悪人と言いますと大変恐ろしい人のように感じてしまいますが、一体、極重悪人とはどのような存在なのでしょうか?

新聞やテレビでは、毎日のように虐待や殺人など悲惨な事件が報道されています。その度に様々なコメンテーターが登場し、犯人を悪人として徹底して非難し、人間の心の荒廃を嘆き、どう対策をとるべきかを話しています。

私はそういう場面を見せつけられる度にある違和感を持ちます。どういうことかと言いますと、彼らは自分が善人であって悪とは無関係であり、悪をなす可能性はないと思っているのか?ということです。

勿論、社会的には法律から外れる行為をした者は悪人と言われます。しかし、宗教的にははっきりとした善悪の線引きはありません。その中で、むしろ宗教的に悪人と言われ、ここで極重悪人と言われる存在は、自分が善人だと思って疑わない、そういう態度の人なのでしょう。

私たちの大部分は所謂犯罪者と呼ばれるような人ではありません。善良な一市民だと自分もそう思い、人からもそのように認められたいと願っている人が大部分でしょう。そして、毎日の悲惨な事件にうんざりして、犯人を決して許さないと指弾します。宗教的にはそういう我々の姿が極重悪人なのです。

仏さまの眼から見れば、世の中の善人も悪人も共に深い所で浄土を表し、本願を表している大事な人なのです。しかし、私たちには仏さまに背いて、自分の物差しを振りかざして他人の価値を決め、他人を排除してしまいます。

仏さまに背いている私たちも、実は、仏さまから大切な人よと呼びかけられ、わが身の本当の姿に目覚めてほしいと願われ続けているのです。極重悪人とはそのような存在なのではないでしょうか。