016あじさいの花

日下部澄子

「今、ここにいる自分」をどう捉え、どう考えたらいいのでしょう?楽しい時、嬉しい時の「今、ここにいる自分」は手放しで認めますが、悲しい出来事に出会ったり、辛い思いをしなければならなかったりした時は、「こんなはずではなかった」「こんな自分ではないはず」と、いろいろな理由をつけて現実を受け入れることができません。済んだことを愚痴ったり、憎んだりして、過去の幸せな時を懐かしんだり、未来に目を向けることで、現実から遠ざかろうとし、当てもなく彷徨う自分がいます。

阿弥陀さまは「苦の原因は自分を知らないとことにある。少しは善いところもあるはずだと思っているのは大間違い。他人さまの言うことが聞けないのがあなたなのだ。だから、『法』が身にしみ込むまでしっかり聴聞し、本当の人間になってほしい」と、いつでもどこでも必ず、至らぬ私を暖かく包んで、いつも呼びかけていてくださっているのですね。

清澤満之氏は「絶対他力の大道」の中で、「自分とは一体何でしょうか、私どものはかり知ることのできない不可思議な力にはからわれて、今ここにこうして生かされているもの、これがすなわち自分であります。ただ不思議な「力」におまかせして生きている身であります…」(林暁宇氏の意訳)とおっしゃっています。

その同じ「力」にはからわれて、別院の境内の古木の下で嬉しげに咲き始めましたあじさい。あじさいは無数の花弁が集まって一輪となり、一輪の花が集まって一株の花となる。そして雨に打たれて美しくなる。目立って咲くことよりも、控えめに、大木の下で、見られたいとも思わず、ただひっそりと静かに咲いている。それなのに色はますます深まって美しく咲き、「いつくしみ」の心を放っているように思えます。

あじさいの花のように、さまざまなつながりの中で生かされているいのちを通して、与えられたままの自分を尊べるよう、お念仏申して学ばせていただきたいと思います。