013亡き人と出遇う

高木彩

7年前に息子を亡くし、認知症で施設に入った妻には会うことすらできぬまま先立たれてしまったあるおじいさんの家へ、毎週お参りに行っています。

おじいさんはお参りの度に涙を流し、泣いています。最初は、死に目にすら合わせてもらえなかったことへの悔し涙でした。生前の妻からの手紙に「もう会いたくない」と書いてありました。「そんな悪い事はしていないのに」と、おじいさんの言い分もあったようですが、おじいさんが酔っぱらっていたこともあって、私は「厄介やなぁ」と思い始めました。

ところが、何回かお参りに行くうちにおじいさんの口から愚痴は無くなり、泣きながら「妻には酒で迷惑をかけたのに何もしてやれんかった」と、自らを悔やみ始めました。おじいさんは、一人になって初めて手を合わせることを通して、自分の思いばかりであったことに気づいたのではないでしょうか。

私は最初、酔っぱらいのどうにもならん人やと思い込んでいましたが、それは私の勝手な思い込みから、繋がることを避けようとしていたのでした。思えば、私はこの時に限らず、自分に理解できない人とは関わらないようにして、自分が共感できる人と付き合おうとしているのです。全てを共感している訳ではないのに、自分と思いを同じくしているように思い込む。自分の思いを超えない閉ざされた世界の中で「共に分かり合おう」としていたのです。

おじいさんの場合、妻と分かり合えていると思い込んでいたのに、実際は、妻は苦しんでいた訳です。「何も分からずにたいへんな思いをさせてしまったなぁ」というところに深い悲しみがあります。なかなかそのことに私たちは気づけないのではないでしょうか。お互いが都合の良いところだけで繋がることで分かり合っている気にはなりますが、それは自分の物差しをつかんで離さないまま、互いの違いには触れないようにしているだけなのです。

親鸞聖人が『歎異抄』で「善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり」(真宗聖典640頁)とおっしゃっているのは、自分の物差しを離そうとしないのに、普遍的に善悪を決めつけることはできない、ということでしょう。

私たちの心がけだけでは、自分の思いを離れることはなかなかできませんが、お釈迦様は、それぞれが異なっているのだから、思いも違ってくるということを教えてくれています。私は、おじいさんとの出遇いを通して分かり合えていなかった深い悲しみから人が繋がっていけるということ、そして自分の持つ物差しの中でしか生きていないことに気づかせてもらいました。人との出遇いは、教えとの出遇いであり、自分の物差しに執着し続ける私のあり方を問い直し続ける、とても大切なものだと思います。