荒木智哉
先日、茨城県を中心とした、親鸞聖人のご旧跡を訪ねました。
聖人は越後での流罪を赦免された後、家族と共に常陸(ひたち)の地(現在の茨城県)に移り生活を始めます。言葉も文化も異なる中での生活はたいへんな苦労があったと思います。聖人の生きた鎌倉時代は土木・灌漑の技術が発達しておらず、一度大雨が降ると川が氾濫し、人家はおろか田畑まで壊滅的な被害を受けました。その繰り返しのため、人々の暮らしはいつも不安と隣り合わせでした。一定量の食料が収穫できないということは生死にかかわる問題です。
その不安は大蛇という形を取って当時の伝説や説話に多く現れてきます。大蛇とは氾濫を繰り返す川の象徴であり、人々は自然の脅威を前にどうすることもできず、大蛇に対してその怒りを鎮めるために供物を捧げ、時には生贄を捧げるといったこともありました。恐らく聖人自身も関東での教化活動で立ち寄った村々でそのような出来事を見たり、聞いたりしたと思います。その一つの出来事の様子が、高田派に伝わる『親鸞聖人正明伝』の中にも出てきます。
聖人は若い頃比叡山で学ばれました。当時の比叡山では中国大陸の最先端の学問を学ぶことができました。今でいう総合大学の機能も備えていました。当時その中には土木・灌漑の技術も含まれており、聖人は多くの最先端の知識と越後での流罪生活での経験をもとに、関東の地で民衆に対して多くの技術を教え、伝えたのではないでしょうか。
伝説や挿話は近代歴史学においては軽んじられる傾向にありました。しかし、そのような伝説・挿話の中にこそ、その時代を生きた人々の様子がありありと描かれているのではないかと私は思うのです。
常陸の人々にとって、聖人はお念仏の教えを説くだけではなく、一緒に田畑を耕し、作物を育て、苦楽を共にしていった、たいへん身近な存在であったと思います。日々の交流を通して、お念仏の教えは自然に人々の生活の一部分となっていき、そして、その生活は今日まで綿々と受け継ぎ、伝えられてきたのです。
ご旧跡を巡る中で、人々に教えを説く聖人と同時に、人々とその生活の中に共に生きていった聖人という、二つの聖人像を感じました。優しいまなざしの中に秘められたどっしりとした力強さ、「となりの聖人」という人物像を私は感じずにはおられません。
あるご住職が言われた「私たち常陸の国の門徒は」という言葉が印象的でした。