佐々木治美
先日境内の掃除をしていると、一人の女性が入って来られました。そして、「子育てで何か悩みごとはないですか?」とおっしゃいました。突然のことで呆然としている私に、「どんな悩みごとでも解決してくれる先生が来るんです」と続けます。私は、少し意地悪な気持ちで「どんな悩みごとでも解決してくれるなんて凄いですねぇ」と答えました。すると、「悩みが起こらない、起こってこない方法を教えてくれるんですよ」という返事が返ってきました。悩みが起こらない?そんなことはありえないでしょ?と思いながらも、返す言葉を失ったまま、その女性の後ろ姿を見送りました。
私にとって“悩み”という言葉でまず頭に浮かんでくるのは、20年程前のことです。その頃、私の母は更年期障害で苦しんでいました。あちらこちらの病院へ通いましたが、一向に症状は改善されません。最後に辿り着いたのは、少し遠くの医大病院でした。そこの医師からまず聞かれたのが「何か悩みごとはないですか?」という言葉だったそうです。そこで、母は「長女(私)が、結婚しないことです」と答えたと言うのです。
娘の目から見ても決して楽ではなかったであろう母の半生を考えて「もっと他に悩みはあるでしょう?!」と反論すると、「だって、他のことは悩んでもどうにもならないから」ときっぱり言い返されました。確かに、私が思う母の苦は、悩んだところでどうすることもできません。只々受け入れるしかないのです。
それでは、人は自分の力で解決できそうなことで悩むのでしょうか。私自身、今年の4月には長男と二男がそれぞれ高3と中3になります。いわゆる受験生です。私がいくらヤキモキして「勉強しなさい」と怒鳴ったところで、本人たちがやる気にならない限り成果は上がらないでしょう。その事実を受け入れられず悩むこともあるのです。
こんな身近な悩みから、昨年の東北を襲った未曾有の被害、その復興の遅れと、また、いっこうに脱原発へと動き出そうとしないこの国のあり様も、悩ましい限りと感じる私がいます。
なぜ、人は悩むのでしょうか。それは、私たちが無明の闇を生きているからでしょう。その闇を照らすのは、やはり「法(真実の教え)」しかないのです。人が生きていく上で、悩みがなくなることはありません。その度に仏法に依って、我が身を知らされていく、その繰り返しではないでしょうか。新年に当たり、ますます聞法の必要性を感じています。