012賜った関係 

高野昭麿

浄土真宗では得度(とくど)を「しがらみを超えて、生き生きと躍動する世界へ旅立つための出発点」と考え、昔から大切にしてきました。その得度を受けるためには、基本的にお勤めのテストに合格しなければなりません。

先日、妻と子どもが得度すると言ってくれました。「なぜ得度しないといけないの」と子どもが尋ねると「私たちはお寺があるから暮らさせてもらっているからだよ。少しでもお寺のためにならないとね」と妻が説明していました。得度をしてお勤めもしてくれようとしていることに、私はただただ感謝しておりました。

こうして得度を受けるためにお勤めの練習を始めました。まず私が手本を示して、それに続けて声を出していき、間違っている箇所を直していきます。子どもはわりと早く覚えてくれましたが、妻はなかなか上手くなりません。妻は真宗門徒ではない在家の出身ですから、「正信偈(しょうしんげ)」も嫁いで来てから初めて聞いたのですが、これまで、何度も法事や本堂で正信偈を聞いていると思っていました。また運転中にはお勤めのCDを聞きながら声を出して練習しているらしいのです。しかし毎日夕食後2時間も練習しておりましたが、上手くなりません。テストの日が近づいて果たして間に合うのだろうかとこちらが焦ってきました。そして焦りから、なぜ覚えられないのかと怒りに変わっていきました。これだけ稽古をつけているのに少しも上手くならない。本当にやる気があるのかと妻に言ってしまいました。妻はやる気はもちろんあるし、ずっと運転中でも練習しているとの返事でしたが、私の不満は一向に収まりません。そこでふと『愚禿悲歎(ぐとくひたん)述懐』の、

悪性(あくしょう)さらにやめがたし/こころは蛇蠍(じゃかつ)のごとくなり/修善(しゅぜん)も雑毒(ぞうどく)なるゆえに/虚仮(こけ)の行(ぎょう)とぞなづけたる(真宗聖典508頁)

の言葉が思い出され、毎日稽古をつけてやったのに上手くならないと言わねばならない私の心、まさに毒の混じった善しかできない自分を知らされました。また妻へのやるせない気持ち以上に、夫はなぜ稽古をつけられなかったのかと教区の方から笑われるのではないかと私の面子を保とうとする蛇や蠍の心を、妻のおかげで見せられた気がしました。

何も妻が悪いのではない、すべて私の中の雑毒の心、蛇や蠍の心を見せていただくための賜った関係を生きていることを実感させられました。