003言葉

大橋宏雄

昨年、宮城顗(しずか)先生が亡くなられました。縁あってお通夜とお葬式を手伝わせていただきました。その後、一緒に手伝いをした方々と食事に行った席でのことです。皆さん、「大切な先生がいなくなってしまった」「あの講義の続きが聞きたかった」と、亡くなられたことを残念に思う気持ちを話しておられたのですが、ある方が誰に言うでもなく、ぽつりと話された言葉が私の中に響いてきました。それは、「死んでから出遇うこともあるからねえ」「一度出遇っていれば、何度でも出遇い直せる」という言葉です。

「出遇い直す」という言葉は、宮城先生のお話の中で初めて聞いた言葉でした。そして、その言葉を実感したのはある学童保育所とフリースペースでの子どもたちとの出遇いでした。フリースペースというのは不登校の子どもたちの居場所として開かれているところです。その学童保育とフリースペースは私の親戚のお寺がやっていましたので、スタッフは私が小さな頃から知っている伯父や従兄弟でした。しかし、そこの子どもたちとの関わりの中で、「先生」「お兄ちゃん」と呼ばれる伯父や従兄弟と、一人の人間として出遇い直したのです。それは、つまり「本当に大切なことは何か」ということを一緒に考えていく仲間になったということです。今でも私は伯父や従兄弟と出遇い直させてくれた子どもたちにとても感謝をしています。

それ以来、私は「出遇い直す」ということを何度も人に話してきました。それにも関わらず、「死んでから出遇うこともあるからねえ」「一度出遇っていれば、何度でも出遇い直せる」という言葉が、まるで初めて聞くように私の中に響いてきたのです。これには驚きました。「そうそう、そうなんだよ」と共感するのなら分かるのですが、なぜ初めて聞いたように感じたのか。

それは、私が「出遇い直した」と感じた人は生きていたからではないかと思うのです。「出遇う」ということにその相手が生きているか、死んでいるかは関係がありません。しかし、私は自分の体験に囚われて、死んだ人と「出遇う」ことがあるとは思ってもみなかったようです。そのような私ですから、「死んでから出遇うこともある」「一度でも出遇っていれば、何度でも出遇い直せる」という言葉を、初めて聞いたように感じて驚いたのでしょうし、ある意味では初めて聞いたのだと思います。そしてまた、その言葉はある方の口から出た言葉ではありますが、その場を与えて下さった宮城先生の言葉でもあると思うのです。

何か言葉の持つ意味を超えて、私の姿を一つ、照らし出して下さったように感じています。