007迷信 

竹林泉

先日ある家族の亡きご主人の十七回忌法要が営まれた時のことです。この家族は大阪の方で、十七回忌ともなるとちょっとした小旅行気分で、おばあちゃんと子どもたち、それと数人のお孫さんがお参りに来られました。本堂でのお勤めが終わり、お墓参りに行きました。墓前に花を供え、線香とロウソクを立てて、しゃがんでいたおばあちゃんが立ち上がろうとした時、慣れない体勢から地面に足をとられてスッテンコロリンと尻餅をついてしまいました。

一同「あっ、お墓でこけはった」との声が上がり、すかさずおばあちゃんが「お父ちゃん、まだ迎えに来んといて。もっとお父ちゃんの分まで生きたいねん」との声に、今度は一同大爆笑。けど、おばあちゃんは真剣な顔で「住職さん、どないしたらよろしいやろ」と聞いてきました。私は「どないもせんでええ、そんなん迷信やでな」と答えました。

お墓でこけると縁起が悪い。いろいろな迷信とか、語呂(こじつけ)とかが言われております。中にはそれなりの意味もあるかもしれませんが、そのほとんどは何の根拠もありません。特に仏教に関することはいろいろ言われておりますが、清め塩のこと等は、最近になってようやく理解されるようになりました。私たちの気持ちの中、あるいは地域とか地方には、まだまだ不思議と思える習慣やしきたりが残っています。単なるユーモアで済ませられないことも耳にします。

私も「これはこのようにせんとあきませんのやろ」等とよく聞かれます。それは「何の根拠もないから心配せんでいい」と言うと、だいたい納得してもらえます。中でも数字の「四」をなぜか殆どの人が「死」につながるから縁起が悪いと言って嫌がります。そんな時私は「何で、数字の四が死ぬにつながるんや。四がなかったら五・六は続けられへんで困るやろ」と言います。迷信ってこんなもんです。

006真の人間関係 

高木彩

テレビで、人間関係力テストと題して、良い人間関係を築く能力をテストしていました。表情や仕草、言葉を通して、人の気持ちを推し量ったり、どんな時も他の人と協調して行動しているか、また自分の感覚が世間の多数の意見と同じかどうかで、能力を量る問題もありました。

私自身テストをしていて、人間関係の能力を知りたいというより、私の人を見る目や考え方、物事を見る感覚は、社会の常識とずれていないと思いたいというのが、自分の本音でした。そのテストでは、自身の人を見抜く力や周りの人との協調性があれば、良い点を取れて、良い人間関係を築けるということになるのですが、それは上辺だけの人間関係になりかねないと思うのです。

最近お参りに行った家のおばあさんが親戚のおばさんのことを姉さんと勘違いして話していました。隣の人が間違っているよと言っても、おばあさんは間違っていることが分かりません。するとおじいさんが「うん、うんと頷いてやればいいんや」と言うので、隣の人が「うん、うん」と言ってあげるとおばあさんも笑顔で頷いて「あの人お姉さんやなくて、おばさんやった」と勘違いに気づきました。私は、人の間違いをすぐにあげつらって、間違いを正そうとするのですが、おじいさんは、おばあさんの間違いを分かった上で、おばあさんの言ったことに頷く。それは、おばあさんの存在そのものを認めているんだよという意思表示のように感じました。おばあさんは自分の存在を認めてもらっていると感じたからこそ「自分は正しい」という箍(たが)を外すことができ、自分の間違いにも気づくことができたように思います。

『歎異抄』で、

わが御身(おんみ)にひきかけて、われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。まことに如来の御恩ということをばさたなくして、われもひとも、よしあしということをのみもうしあえり。(真宗聖典640頁)

と書かれているように、この世の善悪ばかりに振り回されて、本当の願いに気づけない自分であることを、聖人は身をもって教えてくれています。そんな自分でさえも認めてくれる人がいるだけで、心が救われます。どんな人でも相手の存在を認めるところから、自分が正しいとか、間違っているという次元を超えて、相手の思いに頷き、また自分の思いも伝えていくことができる。そこから世間体や社会的価値観・常識を超えた心の人間関係が築いていけるように思います。

005自分 

藤井信

毎日の生活の中では、時々何をやってもうまくいかない時があります。そんな時に限って、さらに悪いことが続いたりします。自分のとった行動が裏目に出たり、自分の言葉を思いもよらないように解釈されたりします。

お参りに行ってお話をしていると、こんな話を聞いたりします。不幸なことが続いて、占いなどで見てもらった等の話です。そんな場合よくありがちですが、先祖の誰々があなたをすがっている等、不幸の原因が先祖のせいになります。もし本当にその言葉をそのまま信じることができるならば、自分にとってはとても都合がいいですね。なぜなら、あなた自身には責任はないと言われているようなものですから。話は戻りますが、何をしても物事がうまくいかないことが続いていた時に、ふと叔父のお寺の報恩講で、講師の先生が話されていた言葉が頭によみがえってきました。

高光一也という方の言葉ですがこんな言葉です。「人間は朝から晩までいろんなことをしゃべっている。いかにも分かったようなことを言っているが、人間の話している言葉は、つきつめれば〈そんでも、そやけど、あいつが、こいつが〉の四つの言葉を繰り返しているだけではないか」と。

なるほどと思いました。確かに私たちは、人が寄ればこのような話ばかりです。〈そんでも、そやけど〉と言い訳ばかりで自己を弁護し、〈あいつが、こいつが〉と他人に責任を転嫁してばかりの生活に明け暮れています。

私たちは、そのようにしていつまでたっても同じ過ちを繰り返し、大切な時間を空しく過ごしています。悪いことといっても、結局は自分にとって都合が悪いことというだけなのです。自分の姿を正直に引き受けることなく、他のせいにして逃げてばかりいる、そんな自分を言い当てられた言葉でした。

004お念仏

藤井正子

「阿弥陀様を一人ぼっちにしていませんか」

この言葉は今年届いた年賀状に書かれていました。この時「阿弥陀様を本当に必要としていますか」「何を頼りにしていますか」と問われたような気がしました。そして『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』の中にある上人の仰せと重なってまいりました。正月一日にご挨拶にまいられた道徳に、

道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし。自力の念仏というは、念仏おおくもうして仏(ぶつ)にまいらせ、このもうしたる功徳(くどく)にて、仏のたすけたまわんずるようにおもうて、となうるなり。他力というは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御(おん)たすけにあずかるなり。そののち念仏もうすは、御たすけありたるありがたさありがたさと、おもうこころをよろこびて、南無阿弥陀仏に自力をくわえざるこころなり。されば、他力とは、他の力というこころなり。この一念、臨終までとおりて往生するなり。(真宗聖典854頁)

という仰せの言葉です。つまり、口に称えてる念仏は同じでも、心得に違いがあると言われるのでしょう。

私たちは「念仏を称えなさいよ」と勧められますと、助かると思って念仏を一生懸命たくさん称えることがありますが、困ったことが起こると「あの時お参りをしなかったから」とか「朝晩お参りしているのに、何でなん」というように、念仏を取引の言葉のように思ったりします。

南無阿弥陀仏のお名号は、阿弥陀仏の衆生を救済するための願いと修行が成就した相で、南無はたのむという衆生の機を表し、阿弥陀仏はたすけるという仏の法を表すので機法一体ともいわれます。この「弥陀をたのむ」ということは、念仏する自分自身が問われ、そこにどこまでも自分の思いを立てていこうとする自分の執着心の深さを知らされ、阿弥陀仏のこころに頭が下がったということなのでしょう。

私たちは、南無阿弥陀仏のいわれを明らかに聴聞せず、また、称えている自分自身を問うことのない時、仏様を自分と離れたところにおくことになり、念じられる仏様と念仏する私が、別々になってしまいます。阿弥陀様を一人ぼっちにしている原因は、自分の力で何とでもなると思っている私自身にありました。

003摂取不捨 

員辨暁

最近、新聞やテレビを見ておりますと「自殺」ということが毎日のように報道されております。人が自殺に至るまでの苦しみや悩みの内実は、人により様々だと思います。本当に悲しいことでございます。私たちは日常生活の中で、物事が自分の思い通りに進んでいる時には、あまり〈いのち〉というものを深く考えることはないのですが、逆に物事が自分の思い通りに進まなくなると、自分の〈いのち〉ということを深く考えることになります。自分の〈いのち〉はこの世に本当に必要なんだろうか。本当は必要ではないのではないか。もし、必要でなければ捨ててしまえ、というように、私たちは自分の〈いのち〉を自分の思いや、自分の都合によって考えていることが多いようです。

そんな中、あるお寺の掲示板に次のような言葉が書いてありました。「あなたが〈いのち〉を見捨てても〈いのち〉はあなたを見捨てない」という言葉です。私たちの思いや考えで自分の〈いのち〉見捨てることがあっても〈いのち〉そのものは私自身を見捨てないということです。

私たち浄土真宗のご本尊である阿弥陀様のはたらきは、「摂取不捨」という言葉で表されます。分かりやすくいうと「選ばず」「嫌わず」「見捨てず」という言葉になるそうです。私が今までどんな歩みをしてこようとも、決して阿弥陀様は選んだり嫌ったり見捨てたりしないということです。私たちは自分の思いの中に閉じこもってしまうと、必ず行き詰ってしまいます。私たちがお念仏を称えるということは阿弥陀様の広く深いおこころに出遇うことなのです。

改めて「あなたが〈いのち〉を見捨てても〈いのち〉はあなたを見捨てない」この〈いのち〉とは、阿弥陀様のおこころです。

002いのち

折戸恒夫

三重教区のみなさん、今日はテレホン法話でみなさまにお話をするという機会を与えられました。未だ勉強中、若輩の身でおこがましいと思うことしきりですが、新しい年を迎えました今、強く感じていることについて申し上げます。

宗祖御遠忌テーマに「今、いのちがあなたを生きている」と掲げられ、昨年末には昨年を代表する漢字が「命」と決まりました。一つしかない大切な命、かけがえのない地球より重いとまで言われる命を、弄(もてあそ)び、絶つ事案、事件の数々。親が子を、子が親をさしたる理由もなく殺し、飲酒運転による度重なる死亡事故。外に目をやれば、テロと報復の応酬による限りない殺戮(さつりく)等枚挙に暇(いとま)がありません。悲しむべき、許し難い犯罪なのであります。この現状に私たちは目を覆っているだけ、嘆いているばかりではいけません。荒(すさ)ぶ心を癒し、危険にさらされている命を救い、安心安全な社会・世の中とするため、座視することなく立ち上がらなければなりません。誰一人として被害者となり、また加害者としてしまうことは許されないのであります。

宗派、教区、組、寺の内にこもって平穏無事を享受しているだけでなく、親鸞聖人の教えをいただき、そして命を救うために積極的に街頭に、諸会合に出て、説話し、語りかけ、公開の講座を数多く開催する。効果的な音楽法要により視聴者に念仏の教えを訴える等して、広く人の心を救い、人心を安定させて、忌まわしい犯罪のない、広く、大きく、暖かい社会の実現に多大な貢献をすることが現在の急務であると、思料するものであります。

思いのままに申しましたが、私はお念仏の教えをいただき続ける生活を通して、命の大切さが次世代にしっかりと引き継がれるよう願うばかりです。

001先祖供養 

磯野恵昭

今年もお念仏申せる新しい年をお迎えのこととお喜び申し上げます。
先日、ある宗教新聞に儒教の専門家が「日本では昔から先祖供養といって、それが仏教の教えからできているように思っているが、先祖供養は儒教の問題です」と書かれておられました。

なるほど倫理・道徳の教えである儒教は、人間の道として、親や先祖への孝行を説かれたものですから、親の命日はおろそかにしません。父の命日には父の、母の命日には母の位牌をまつり、家族そろって未だ生きているかのごとく捧げ物をしご挨拶をして、丁寧に儀式を行います。ただし、儀式・儀礼は行うことに意味があり終われば終了です。しかし、仏教の儀式は行儀であります。行儀とは聞法し残った人皆が目覚めの方向へ歩む人生にと導かれることであり、それが法事の意味でもあります。

その専門家は続いてこうも書かれておられました。「もう一つの違いは、儒教では位牌を置いて亡くなったその人をまつりますが、仏教には本尊があります」と。そんな仏教と儒教の違いを示された最後に「だから仏教は本来の仏教に立ち返ってください」と締めくくられておられました。

どうか亡き人の死を他人事にせず、私の生き方の上に生かしていく受け取り方をしていただき、本来の仏教に立ち返ってくださる歩みにしていただきたいと思います。

037あとがき

「心をひらく」第28集をお届けします。法話をしてくださる方には、もちろん何度もお願いしている方も多いですが、新しい方、あまり担当していただかなかった方、坊守の方、門徒会の方にも、多数お願いしております。たいへんご苦労をおかけしました。

最近、思いますことは法話を聞くということももちろんですが、話をするということにおいても、実は育てられているのだということです。多くの先生方、先輩方ばかりか多くの見知らぬ方にさえ、私たちは育てられているということです。教団があるとすれば、これこそが教団でしょう。

念仏の教えは、いわば人々の体温の中で、育まれてきたということでしょう。

036ほとけ様の願い

片山寛隆

先日も、今年を振り返って漢字一字をもって言い当てれば「命」ということがありました。「いじめ」の問題から自らの生命を絶つという痛ましい事象が後を絶たない、あるいは親が我が子を虐待して死に至らしめるということが何処にでもあるような世の中になってしまったと、嘆きの声も何か空虚を感じてしまう時代です。「どうしてこんな問題を起こすような子になってしまったのでしょうか。こんな子に育てた覚えはないのに」と悲痛な訴えを聞くことがあります。

我が子との関わりにおいて、親は一生懸命にがんばって育てていることには、どんな親も変わりはないものでしょう。しかし、問題が生じた時、そのことにどのように関わるかが普段の関係によって決まってくるのではないでしょうか。

子どものためと、うるさいと思われても、子どもに対して「勉強しなさい、宿題を早くしなさい」と口が酸っぱくなるほど言って育ててきましたという親があります。本当にそうでしょうか。何度も何度も言えば、子どももそれに対して応答してくれることもあれば、時と場合によっては応えてくれない時もあります。その時親は「こんなに言っているのに言うことを聞かなかったら、もう知らないよ」ということを知らず知らずの間に言っていることに気がつかないものです。

その言葉が子どもにとっていかなる言葉であるか「もう知らない」と親から突き放されたその声が、親子の断絶を親の方から宣言した言葉であることを。

子どもの悩みを親が感知できない。子どもが悩みを親に訴えられない、子どもを孤独にしている原因の一端が親にあることを考えてみたいものです。

ほとけ様は、四十八の願いを私たち一人ひとりにかけて誓ってくださいました。そして、その願いに気づき頷くまで私を心配して、私の傍らを離れないと誓ってくださいました。だから、ほとけ様のことを昔から親様と言ってきたのです。

035内観(ないかん)の眼(まなこ)をいただく

泉有和

仏教の特徴を一言でいうと「内観」の教えであるといわれます。内観というのは内側に眼を開くことです。この肉体にある眼だけは、どれだけ努力しても自分の内を見ることはできません。この内観の眼を仏様の眼というのだと教わりました。

この眼をいただくことなしに、人間の眼だけで見ていると、何事につけ自分抜きでしか考えることができません。あの人が悪い、この人が悪いという思いでしか見ることができないというのです。「自分のことだったなぁ」と受け止めることができないのです。今の苦しみをすべて他人のせいにして、自分に原因があることに気がつかない。その心が自分を苦しめ、周りの人たちを苦しめるのです。

この前の夜、暗い中を手洗いに起きたのですが、その途中足の指をぶつけてしまい、あまりの痛さにうずくまってしまいました。我が家の板の間から畳の間の境には敷居があるのですが、それが心持ち高めなのです。普段なら引っ掛けることなどまずないのですが、その敷居に足をぶつけたのです。その時、まず浮かんだ言葉は「誰や、こんな家作ったのは!」です。寝ぼけ半分で電気も点けずですから、すり足でもして気をつけて行けばこんなこともなかったのにと思うことは思うのですが、その後から「それでもあの敷居が高かったのが悪い」という、他に責任を転嫁していく思いが湧いてきました。頭では分かったつもりでいても、どこどこまでも自分の問題を認めることのできない者がここにいたのですね。

同じ頃、テレビから「いつも誰かのせいにしてばっかりだった俺」という曲が流れてきました。湘南乃風というグループの曲だそうですが、その曲名に心が動かされました。「すみません」と頭を下げながらも、内側ではなかなかそうは思っていないのがこの私です。でも、そんな自分がお念仏をいただくというのは、難しいことではないのだというのです。「問題はこちらにあったなぁ」と、我が身の間違いない事実に気がつくだけの世界です。こんな簡単なことですが、照らされないと気づかない、内側を見る眼をいただかないと、なかなか気がつかないのですね。

仏様の教えに出遇うと、内側の眼をいただいて、素直でない身勝手な自分が見えてくるのです。人間は教えられないと、自分が悪かったということに眼が覚めないのです。

食べ物や着る物が十分にあったり、お金がたくさんあったりと、生きていく上の様々な条件が満たされれば、人間は幸せになるのかもしれません。しかし、より大事なことは何をこの身に教えられて生きるか、それがあるかないかです。内観の眼をいただいているかどうかでないかと思うことです。