030お経の教え 

服部拓円

暑さも和らぎ、日に日に寒さを感じる季節となってまいりました。先日、電話ではありましたが、友人と話していまして、お経とは我々にとってどういうものなのか、お勤めや学ぶことによって何かいいところにでも行けるようなものなのかといった話が出てきました。私自身におきましても、以前こういった想像・イメージというものがあったことを思い出しつついろいろと話していたわけですが、非常に大切な問題のように思います。

昔、唐の時代に善導大師という方が、私たちお経を学ぶ者に対し「お経とはこういったものであると思って聞いていただきたい」という言葉を残しておられます。それは「教経はこれをたとうるに、鏡のごとし」と善導大師は、お経の教えとは、鏡のようなものであるとおっしゃっておられます。鏡とは私自身を映し出すものであり、今現在の私自身を教えていただくものがお経であると言われているのではないでしょうか。さらに善導大師は「しばしば読み、しばしば尋ぬれば、智慧開発す」と言われております。私たちの知るところの鏡とは、毎朝その前に立ち「まぁこれくらいならいいだろう」と思いながら、自分の身だしなみをするわけです。しかしながら、私自身そうであるように自分の見たくないところはできるだけ見ないように、それどころか見なかったこととしてはいませんでしょうか。

お経の教えとは私たちのいうところの鏡とは少し異なり、そういった見なかったことにしてしまっている自身の姿までもありありと映し出し、その問題をまじまじと気づかせていただく。それがお経の教えのはたらきであることを善導大師は鏡という表現を通して示されております。

また、私たちは鏡がないことには自らが見えないように、世の中での出来事・身近であることに関して「私には関係ないことだから」「昔とは時代が変わったのだから」と目を背け評論するだけに止まってしまうことが多いのではないでしょうか。そして、テレビで駐車禁止のところに迷惑駐車する人が「みんながやっていることだから」と平然とインタビューに答えているように問題を見なかったことにしてしまうことが、ついついあるのではないでしょうか。自らの問題とするところから訪ねさせていただく。それが何より大切なのではないでしょうか。