031報恩講 

藤井慈等

報恩講は、ご承知のように親鸞聖人の亡くなられたご命日を、御正忌(ごしょうき)、または御正日(ごしょうにち)と呼んで勤められて参りました。したがって、御正忌報恩講、また御正忌さまと呼んでいる地方もあるようです。親鸞聖人のご命日を期して集いをもつことが、真宗門徒の印(しるし)となって今日まで続いているわけです。真に希有な伝統であると思いますが、聖人の生涯に出遇う、当にその日という意味で、御正忌、文字通り明るいという字を使って「御明日(ごめいにち)」とも言われます。

最近、青森の東義方という方の「聞楽(もんぎょう)」という遺稿詩集の中に「報恩講」という題の詩があるのを目にいたしました。ご紹介いたしますと、

報恩講が終わると 冬が始まる

けだものが泣いているような あの風の音

凍りついた 魂(たましい)が溶けて

通い合うのは 法を聞く時だけなのです

という、詩(うた)なのです。

報恩講が終わると、風の音と共に、魂を凍らせるような冬がやって来ると言われます。それは、人として今日を生きる者が、出遇わねばならない愚かさとして、この身に響いて来るように感じます。そして、凍りついた魂が溶けて通い合う世界が開けるのは、法を聞く時と言われますように、聞法一筋に歩んできた人が遇い得た法の讃嘆、喜びが溢れ出ていると思います。

蓮如上人の『御俗姓(ごぞくしょう)』には「報恩謝徳のために、無二(むに)の勤行をいたすところなり」と、報恩講は「無二の勤行」法の讃嘆をもってなされることが押さえられています。また同時に「ただ、人目(ひとめ)・仁義ばかりに、名聞(みょうもん)のこころをもって報謝と号せば、いかなる志をいたすというとも、一念帰命(きみょう)の真実の信心を決定(けつじょう)せざらん人々は、その所詮(しょせん)あるべからず。誠に、水に入りて垢(あか)おちずといえるたぐいなるべきか」(真宗聖典852頁)と、真実(まこと)の信心が定まっていないことへの懺悔(さんげ)が、御正忌に応えることであると示されています。

懺悔なき讃嘆は、ただありがたい世界に陥って、恩寵(おんちょう)になるでしょうし、一方で、讃嘆なき懺悔は、懺悔をも我が力にとりこんで、懺悔せしめた法を見失うことになるのではないでしょうか。二つは本来一つなのです。この切り離すことのできない、讃嘆と懺悔をもって営まれる御仏事が、報恩講であるということを、改めて確かめなければならない時だと思います。