023「も」の大切さ

藤岡真

夏も盛りとなり、水に触れる機会も増え、ある都市では昔ながらの打ち水により、クーラーの使用を減らす効果を得ているそうです。さて、いつの頃からか「水もとどまれば腐る」という意味の文を聞き覚え、折に触れ思い出してきました。最初は、夏場にお内仏の華瓶の水が腐っているのを見つけて、なるほど、水も腐るのだ、すべてのいのちに不可欠な水も、流れていてこそ他を生かすことができるのだと感心したものでした。しかし、この一文は単に水が腐るということを表しているのではない、「水も」とあるのだから他のものもということを含んでいます。

たとえば、日常生活の些細なことでも、流れが止まれば自分が腐り、やる気の失せることがあります。掃除等もその一つでしょう。つい、今度片づけようと先延ばしにしてしまう。その繰り返しで、なかなか手につけられなくなります。そんな時、使ったものは元の位置に戻すという、小さな生活の流れを滞らせていたがために、身動きが取れなくなっていたんだと、先の言葉を思い出し、何か行動を起こさなければならないと思います。「水もとどまれば腐る」という一文を思い出すことが行動を起こすきっかけとなってくれます。ただこの時も、流れを滞らせたのは普段から家にいる家族のものであり、家族が悪いのだという気持ちが強く、自分も流れを滞らせている一人であることにはなかなか気づかずにいました。自分もその一人だと気づかないうちは、意欲をもって掃除に取り組めるものではありませんでした。

さて、この「も」という一字に関して、『歎異抄』第9章が思い出されます。弟子の唯円が、お念仏申してもよろこべません、どうしたらいいでしょうか、と問うたのに対し、親鸞聖人は、

親鸞もこの不審ありつるに、唯円坊おなじこころにてありけり(真宗聖典629頁)

とお答えになっています。このことに関して「師も弟子と同じ凡夫の位におりられて、ものを言っておられる。この“も”という一字のもつ意味の大切さ。“共に”といいつつ、相手が、我がと“が”ばかりを主張し、学校にも、家庭にも、この“も”の一字が見つかっていないのではなかろうか」との松本梶丸先生のご指摘に頷かされます。