岡田豊
私の子どもは高校生なので、そろそろ進路を決めなくてはならないのですが、自分自身が将来何をしたいのかという自分の目標がなかなか見つからなくて悩んでいます。
ところで、この問題は掘り下げていくと、単にどういう進路に進んだらいいのかということに止まらず、いったい自分は何のために生きているのか、自分は何をしたいのか。今まで自分と思っていたのは何なのか。本当の自分とは何処にあるのかという、いっこうに埒のあかない、そして答えのなかなか見つからない問いへとつながっています。
考えてみますと、最初にこういう問いにぶつかるのは、思春期、青年期ではないでしょうか。それは、社会や大人、さらには自分自身の偽善性に気づき始める最も多感な時です。人が人となっていくことは、このような問いに目覚めることだと思います。けれども、皮肉なことに大人になると、目の前のしなければならない仕事に忙殺されてしまい、いつの間にかそういう問いを忘れてしまいます。
今日、お寺にお参りに来られる方の多くは壮年期を越えた方々ですが、実は仏教はこのような青春の問いから出発しているのです。比叡山時代の親鸞聖人の問いを、宮城顗(しずか)先生は「いったい自分は何を求めているのか、いったい仏教とは何なのか、はたしてこれが大乗仏教の名に値する道なのか、とどまるところ自分はいったい何者なのか」と表現しておられます。
一見忘れてしまっているけれども心の中のどこかでか微(かす)かに疼(うず)く、青春の問いを取り戻し、そこに再び立ち返ることこそ、教えを聴くということなのです。