川口昭
イラク戦争が始まって以来3年過ぎましたが、始めた方も抵抗する側もそれが正しいと思うからこそ戦っているのです。抵抗する側の自爆による戦い、私たちには理解しがたい行為ですが、やはりそれも正しい戦い方だと信じて行っているのではないでしょうか。
かつて日本でも、飛行機に爆弾を積んで片道燃料のみで、敵艦に突っ込んでいった歴史がありました。命令とはいえ、若き人が日本を救う道だと信じて行った行為でありました。また、ヨーロッパでは、地球を中心にすべての星は動いているという天動説を誰も疑うことがなかったが、1500年頃地動説を唱える人が出て、地球は太陽の周りを回っているということが分かり、それが正しいということになりました。
このような例を挙げればきりがありません。時代が変われば今まで正しいと思っていたものが、実は誤りであったと変わってしまうのです。しかしながら、そうと分かっていても自分の正しさだけは変わらないと思っているのです。それが人との争いとなり、戦争へとつながっていくのでしょう。
親鸞聖人は『歎異抄』の最後のところで、
「善悪のふたつ総じてもって存知(ぞんじ)せざるなり。そのゆえは、如来の御(おん)こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)、火宅無常(かたくむじょう)の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきゆえに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(真宗聖典640頁)
と述べられております。
つまり私たちには、善とか悪とかいう区別をつけることができない。また、私たちが真実の存在になることができないというのであります。しかし、それはまことであるお念仏によってしか知らされないのです。「念仏のみぞまこと」と教えられない限り「自分だけが正しい」という考えで生きている凡夫の姿が見えないのでありましょう。