008法事を勤める理由 

松下至道

昨年の出来事です。法事を頼まれましたが、うちの寺に頼むのは初めての方でした。二人の五十回忌ということでした。二人とも年忌の年をだいぶ過ぎていましたが、そのことには触れず、私はご依頼をお受けし法事を勤めました。

お勤め後、その方が言われました。「ホッとした」と。私は年忌をだいぶ過ぎてからなさったことと「ホッとした」という理由をお尋ねしました。すると、最近その方の家では良くないことが立て続けに起こったそうです。奥さんと娘さんが続けて病気で入院し、ご自身もストレスで軽いうつ病になった。そこで占い師のところに相談に行ったら、法事をしていない先祖の法事をすれば万事良くなると言われた。それでこの2人の先祖の五十回忌をしていないと思い、お願いしましたと。

人間は自分の意に合わないことが起こるとその原因を外に求めます。自分には病気という悪いことが起こるはずがないと思っている。本当は、生きているのだから病気をするのは当然のことだし、社会生活をしているのだからストレスも溜まる。別にその方が特別ということではないし、決して先祖のせいではない。あえて言えば「生きている」からです。

法事は亡き人のためではなく、その場におられる方々のために勤めるのです。亡き人をご縁として。法事をする理由は自分が災難に遭わないためではなく、自分の身の事実を聞くためなのです。

私たちは身で生きているのですが、心で生きていると思っています。だから自分の心に会わないこと、例えば病気になれば、その病気を受け入れることができないのです。お釈迦様は、老・病・死を出る道として仏教を開かれました。それは老・病・死を避けるということではなく、受け入れ、それを縁に深く生きて生きていくということです。自分の身を喜んで生きていける道なのです。

お念仏の教えとは自分の身に感謝して生きていける道を与えてくださる教えなのです。私の話をその方は黙って聞いておられました。納得されたかどうかは分かりません。お念仏の教えを心底から頷くこと、生かされて生きているという身の事実を受け入れ、感謝して生きていくことはとても難しい。自分勝手に頷くなんてできません。阿弥陀仏に頷かせていただくしかないんです。そのための聞法です。頷き続けていくためにまた聞法していく。

真宗には修行はありません。もし修行に当たるものがあるとすれば、それは一生をかけての聞法しかないのです。