023事実を事実として

田切忍

日頃、あまり物事を深く考えない自分が、今年は「生老病死(しょうろうびょうし)」について真正面から向き合って、考えていかなければならないような出来事に出遇いました。

一つは、1月に起こりました父との死別、もう一つは、私自身の病気での入院です。

父の死については、かなりの高齢で持病もあり、何となく考えないこともありませんでしたが、現実の死を目の当たりにして、なかなかその事実を受け取れない私がありました。

また自分の入院についても、いつまでも若く病気とは無縁であると思っていましたから、大変ショックであり、何かの間違いだ、誤診じゃないかと感じている傲慢な私がありました。医者から「今すぐ、入院しなさい」と言われても「都合がついたら、今度入院します」という滑稽で、返事にならない返事をしていたのです。

生きている上で、悲しいこと、嫌なこと、望ましくないこと、いろいろな出来事に出遇います。そして、今まさに現に起こっている事実を事実として引き受けていかねばならないのですが、私の思いに振り回されて、なかなか本当に納得して、事実を事実として受け取っていけない私というものがあるなあと、前の出来事から感じさせられた次第です。

021あるがままということ

藤井信

毎日新聞社が発行した『日本のスイッチ』という本をパラパラとめくってみました。「見えない日本が見えてくる」と書かれたその本は、多くの人が携帯電話などを用いて、様々な質問に対して二者択一で回答した結果が載っています。例えば「お盆にお墓参りは」に対して「します」「しません」というように。ちなみにその質問に対しては「します」が49%で「しません」が51%でした。多くの人はそう考えるのか、なるほどなあと感じながら、私の答えが少数意見であることも多々ありました。別にそれならそれでいいのでしょうが、たまに多数意見に鞍替えしたことがありました。やはり多数意見に身を寄せた方が何となく心が落ち着くということでしょうか。

私たちは他人からよく思われたい、悪く思われたくないという心をもっています。この心があるがままの自分でいるよりも、自分が他人からどう評価されているか、軽蔑されてはいないかといつもびくびくさせるのでしょう。

また、あるがままを受け入れない心は他人にも向けられます。もう亡くなられましたが、いつも朗らかで陽気なおばあさんがみえました。お参りに伺うと、いつも楽しくお話をしていましたが、自分のお家が傷んできたので建て直しをされてから、急にいつもの元気がなくなりました。「何をするにも気力がない」と言うのです。私は家を建て直すという大変な仕事をされたので、疲れが出たのだろうと思っていました。しかし、何ヶ月経っても同じことを言われるので、「あまりそんなことばかり言わないで、気力を出さないといけませんよ」と言ってしまいました。

結局、お身体が重い病気に冒されていたことが原因であったのに、私はそのことが分からなかったのです。更に私は元気のないおばあさんを受け入れず、元気なおばあさんばかりを求めていたのです。

私たちは自分に都合のいい思いばかりを大事にして、事実を事実として受け取ることができないでいるのではないでしょうか。自分を本当の自分以上に勘違いしたりして、あるがままを受け取れないから苦しむのでしょう。しかし、あるがままを受け入れることは自分の力では容易なことではありません。鏡に譬えられる教えに謙虚に聞いていくところに、そのような私の本性が知らされてくることを今更ながら感じさせられました。

020不安と向きあう

木名瀬勝

不安はどうして起こってくるのでしょうか。私の心が未熟であって、経験が乏しく、日常生じる問題に対処するだけの能力が備わっていないため、人間関係や社会関係において思うように立ち振る舞うことができないため、だから不安が起こってくるのだと思っていました。ですから、人に負けない自分、強固な自分を早く作らねばならない、社会のしくみを分析して、うまく適応できるようにしなければならない、そうすれば思い通りに安心して生きていけると思っていたのでした。

ところが、なかなか望みどおりの自分にならない、落ち込んだり、失敗する、そういう自分を認められなくなります。こんな筈じゃないと思う苛立ちが、周りの人たちへの憎しみとなって争ったり、あるいは不安を忘れるために目先の享楽だけ求めるようなことを繰り返してきました。しかし、年を重ねて経験を積んだつもりでも処世術を身につけても、不安は相変わらず起こってくるし、しっかりした自分というものができないのであります。その上、不安を忘れようとすることが逆に虚しさをどんどん募らせるのです。何故そうなってしまうのか、どうしたらいいのか、手がかりがありませんでした。

そんな時、ある先生が「煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死(しょうじ)をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意(ほんい)」と『歎異抄』(真宗聖典627頁)の言葉を引かれ、間違った生き方をしている私たちを真実に引き戻そうとする働きが本願であり、間違った生活をしているから不安や、虚しさが生じるのである、と教えてくださいました。どうして間違った生き方をしているかというと、偽りの自分を「わたし」と思い込んで、その偽りの自分を満足させようとしているからだというわけです。このような自分を拠り所にしている限り、不安から離れることはできないことや、その不安に向きあわなければならないことを教えられました。

019道をあゆむ

森英雄

今が一番いいんよ

あの時こうだったらというものはない

今ここに この時に永遠の命がある

いつも 今 全力投球

大石法夫

現在に安住できる浄土真宗のみ教えは、過去においては一切の後悔というものを残さない。未来については一切の不安がない。だからこそ、この現在に全力で生きることができる。もう少し余力を残していこうとかそういう計らいが人間を暗くする。それは、人間にまだ夢を見ているからだ。人間の思いは幽霊のように足がない。足がないということは、現在位置がはっきりしていないということ。東京へ行くのに「あなたは今どこにいますか」と聞かれて「さあ、どこでしょう」と言っていては道を歩めないでしょう。人生にはいろいろな落とし穴があり、誘惑もあり、回り道もあるでしょうが、そこに迷ったことも自分自身の本当の姿が見出されれば、無駄ということもなくなります。仏教の基本中の基本は「汝、自己を知れ」という一言であります。「仏の本願を信じ」ることが、仏のご本願が建てられたその理由が、他でもないこの自分自身の全体を知らせんが為であったと思い知らされることが肝心です。仏によって見出されたこの自分は何者かというと「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」(真宗聖典627頁)「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(真宗聖典634頁)という身だということです。だからそこに仏のご苦労が偲ばれるわけです。ただ惚れ惚れと仏のご苦労を偲び、この業の身をいただいたことの深さが感じられてくるわけです。

初めてこの人生に対する姿勢が決まってくる。人生に何かを期待するのではない。人生が私に何を願っているのかという声が聞こえてきて、初めて道を歩むことが始まります。もう一度大石先生のお言葉を繰り返します。

今が一番いいんよ

あの時こうだったらというものはない

今ここに この時の永遠の命がある

いつも 今 全力投球

018過ち

折戸芳章

「過ちを改めざる、それを過ちと謂う」ということわざがあります。まさに年金未払いで知らん顔をしている国会の先生方に送りたい言葉です。しかし、私たちの日常生活の中でも自分の行動や発言によって、人に迷惑をかけたり嫌な思いをさせていても、そのことに気づかずにいることがあります。私の心の中に流れている「絶対に私が正しい」と決めつけてしまっている思い、そして、その思いは真の事実を突きつけられても改めようともせずにいます。そのことこそが一番の過ちでありましょう。

親鸞聖人は、そういう心の存在を我が身の上に顕(あきら)かにされたからこそ、自らを愚禿(愚かな私)と名告(なの)られたのでしょう。

人は誰でも過ちを犯してしまいますし、過ちを犯さない人なんて何処にもおりません。大切なのは、過ちに気づかされた時に素直に認める心でしょう。

『蓮如上人(れんにょしょうにん)御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』に「たとい、なき事なりとも、人、申し候(そうら)わば、当座に領掌(りょうじょう)すべし。当座に詞(ことば)を返せば、ふたたびいわざるなり」(真宗聖典877頁)と教えてくださっているように、人が私に注意してくれたら、たとえそうでなくても素直に聞き入れることだ。もし「私は間違っていない」と反論すれば、その人は二度と注意はしてくれないでしょう。

私に注意をし、叱ってくださる人がいるということは、本当にありがたいことです。

017自力の執心

平野法祐

自力で生きているということは、自分が生きている、俺がやっている、俺が食べている、念仏も俺が称えているというように、何でも「俺が」が付いてしか、我々は意識を起こせない。その「俺が」という思いを破られるのが「無碍(むげ)の光明(こうみょう)」であろう。しかし、その「無碍の光明」に触れることはそんなに容易なことではない。

「俺が」という以前に我々は生きている。だからこそ「俺が」と言えるのではないかと自問自答していたところ、3才の外孫が、母親と2人で夕方遊びに来た。今までもお兄ちゃんや、母親とは何度も泊まっていったことがあるので、「今夜独りで泊まっていくか」と言ったところ、やや沈黙があって、朝になったら死んでいるとか何とか訳の判らないことを言う。それで、さらに詳しく尋ねると、「寝ている時は死んでいて、朝になると母親が生き返らせてくれている」と思っていたらしい。その辺りが子どもながらも、どうも不安だったようだ。

こんな3才の子どもでも、いのちに対する無意識の感覚を持っていることに驚き、寝ている時でも、ちゃんと仏さんは息ができるようにしてくれているのだよ。「仏さん、ありがとうと言わねば」と教えたところ、「そうなんや」と納得したように「仏さん、ありがとう」と、うれしそうに言った。

この時、「俺が」を離れた「いのちの感覚」との出会いをいただいた。いのちそのものは両親から生まれているけれども、「誰がくれた」とは到底いえないものです。このいのちのご縁に出会うということは、まことに不思議としかいいようがない。

いのちは自分以外のものと自分を、はっきりと見分けていく力をもっている。これも不思議な働きだ。そして、「自分とは何か」ということを、いのち自身はどこかで判っているようでもある。だから「俺が」というのは、いのちの後からついてきた人間の妄念ということがよく判る。

『親鸞聖人血脈文集』に「自力(じりき)と申すことは、行者(ぎょうじゃ)のおのおのの縁(えん)にしたがいて、余(よ)の仏号(ぶつごう)を称念(しょうねん)し、余(よ)の善根(ぜんごん)を修行(しゅぎょう)して、わがみをたのみ、わがはからいのこころをもって、身(しん)・口(く)・意(い)のみだれごころをつくろい、めでとうしなして、浄土へ往生せんとおもうを、自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御(おん)ちかいの中に選択摂取(せんじゃくせっしゅ)したまえる第十八願の念仏往生の本願を信楽(しんぎょう)するを、他力と申すなり」(真宗聖典594頁)とあり、また『恵信尼消息』には「風邪(かざ)心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、…臥して二日と申すより『大経』を読むことひまもなし。…名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするやと、思いかえして…人の執心、自力の心(しん)は、よくよく思案あるべし…」(真宗聖典619頁)とあり、親鸞聖人が自力の執心が如何に強いかを表白されている。

「俺が」の意識は何処からきたのか、何故だかよく判らないが真(ほんとう)の意味で、この自我に気づいていくことが「無碍の光明」に触れる根ではないかと思う。

016雑行(ぞうぎょう)を棄てて本願に帰す

檉豐

毎日、生活している私のいのちは、如何なる存在者として受けとめることができるかは大切な課題であります。

生きている私のいのちは、どのようないのちなのでありましょうか。いのちそのものに出遇っていかれました方が、私たちが宗祖として敬う親鸞聖人であります。

親鸞聖人90年の生涯は、9才で出家して比叡山に20年間籠もられ、並々ならぬ厳しい修行を果たし、勉学を究められ、いのちそのものの根元を追求し続けられた歩みであります。その歩みは、我が身一人に与えられたいのちが、一人のいのちを超えて、生きとし生ける全存在のいのちの輝きであったという名告(なの)りが『教行信証・化身土巻』において、「雑行を棄てて本願に帰す」(真宗聖典399頁)という言葉であります。本当のいのちに出遇い得たよろこびの叫びは、全てのいのちへの呼びかけとなっています。

しかし、雑行とは日常生活そのものですので、自分自身の力では棄てることは全く不可能であります。その場所を棄てて本願に帰すと名告ることは、自分自身のすべての存在が拠り処を否定される言葉であります。今、この現実の生活が、拠り処を求める場ではなく、虚仮不実(こけふじつ)を生きる存在者として自覚されてくる言葉が本願に帰すと名告ることであります。本願とは、仏に出遇うことであり、仏の呼びかけによって、雑行に生きているあからさまな自分のいのちに出遇うことなのであります。

『歎異抄・後序』に「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(真宗聖典640頁)とおおせられた、聖人の教えの精神によくよく聴聞していく歩みが大切であります。

015虐待するご縁・虐待しないご縁

内山智廣

最近、テレビのニュースや新聞の記事で「幼児虐待」あるいは「児童虐待」という言葉を毎日のように目にします。自称子ども好きの私は「どうしてそんなことをするのだろうか?」と、いつも腹立たしく思えてなりません。しかし、腹立たしく思いながらいつもあるできごとが思い出されます。

それは、私がある知り合いの子どもさんと遊んでいた時のことでした。よく一緒に遊んでもらっている子どもさんで、私にとって大切な友達の一人だと思っています。その子どもさんに、私の間違いを指摘されたのです。その時、私は少しムッとしてしまいました。

なぜムッとしてしまったのだろうかと、後で考えたのですが、私が「子ども」という存在を「未完成な人、自分よりも劣る存在」と思っている部分があるからだということに気づかされました。そしてこうした思い、考え方の延長線上には、虐待をしてもおかしくない自分の姿がありました。

親鸞聖人は『歎異抄』の中で「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(真宗聖典634頁)と言っておられます。つまり、人は自分の思いで自分の思う善いことをし、自分の思う悪いことをしてしまうのではなく、あくまでもご縁によるのだと。逆に言えば、ご縁さえあればどんなことをもしてしまう身であるということです。

私も子どもが好きで、虐待が間違った行為だと知っていて、そして何より、自分の思う正義感から、子どもに暴力をふるったりしないのだと思っていました。しかし、本当は自分の力で虐待をしないのではなく、たまたま虐待をせずにいられた、そうしたご縁がなかっただけなのだということです。改めてニュースや、新聞で見る「幼児虐待」「児童虐待」という問題が、私の問題であったと気づかせていただきました。

014地図

加藤滿

先日一番下の娘を連れて東山動物園に行ってきました。今までいろいろな動物園に行ったことでありますが、その中でも一番広いと感じました。

その動物園の中にはいくつもの案内地図がありました。その地図には、必ず「現在位置」と赤く印されていて、「今、自分のいる場所はここですよ」というように、分かるようになっています。

それは目的の場所に行くには今自分のいる場所はここで、どの道を通っていけば自分の目的の場所に着くかがわかるようになっている。当たり前のことですが、目的の場所が分かっても、自分のいる場所が分からなければ道順は分からないのです。

ですから地図というのは、ある意味で私の歩む道を教えてくれるのであると気づいたことでした。そこで私たちの周りにはいろいろな教えがありますが、自分の居場所を教えてくれる教えは、浄土真宗の教えではないかと思います。

浄土真宗の教えと、他の教えと違っているのは、浄土真宗は私の現在位置を教えてくれていることではないでしょうか。

私たちは現在位置を知らずに、自分の向かっている方向は間違いないと思って生きている。そのことが現代社会の混迷の元ではないかなと思います。

その混迷している現代社会にあって、親鸞聖人の教えによって、今一度、私の現在位置(どのように生きているかを)知り、本当に充実して生きていく方向に向かう時が来ているのではないでしょうか。

013世々生々(せせしょうじょう)の父母(ぶも)兄弟なり

福岡裕

家の改築工事が始まり、自宅の風呂が使えなくなり、家族で銭湯に行かなければならなくなりました。内風呂の時はそんなに気にしなかったのですが、子どもに風呂に入る作法を教えなければなりません。銭湯につかる前にはかかり湯をしなければならないこと。身体を洗う時には隣の人に気をつけて洗わねばならないこと。いろいろ細々と言いました。銭湯にも慣れた頃、どうやって銭湯につかるのかを見ていたら、ちゃんと言いつけを守っていたので少し安心しました。

ある日のこと、年齢は20歳過ぎくらいの若者が銭湯にタオルをつけて気分よさそうに入っていました。そこへイレズミを彫った怖そうな人が、その若者に向かって、「オイ、兄ちゃん。銭湯にはタオルはつけんもんや」と一言。それを聞いた若者は慌ててタオルを銭湯から取り上げました。その光景を見た時、学生時代に先輩から注意を受けたことがよみがえりました。「人に迷惑をかけるな」とよく言いますが、でも、知らないうちに迷惑をかけているというようなことはよくあります。他人から注意されて初めて気がつくということがあります。銭湯にタオルをつけていた若者も、人に迷惑をかけているなどとは思っていなかったのでしょう。誰しも迷惑かけたくて迷惑かけるものでもないし、知らず知らずのうちに迷惑をかけているのが実際ではないでしょうか。

『歎異抄』第5章は「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」(真宗聖典628頁)と伝えています。私たちの住んでいる娑婆世界は誰彼無しに迷惑をかけあいながらも、お互いに戒めあって生きていかなければなりません。特に現代では、自分の家族ということにこだわり、ややもすれば問題をかかえて、その中に引き籠ってしまう我々に、「共に生きる」という根源的な意味を示唆しているように思います。