033善知識の恩徳

川瀬智

10月中旬本山同朋会館において、久留米教区組門徒会本廟奉仕団の方と研修会をさせていただきました。その中のお一人76才の男性が、お念仏との出遇いを次のように語られました。

私にはたいへん物静かで無駄口を言わない祖父がいた。しかし、一つだけ頑固なところがあった。どんなことがあっても夕事勤行を毎晩必ず勤める人であった。私も学校を出るまではいつも家族全員とお勤めをしていた。しかし、卒業をし青年団に入って外に遊び仲間ができた頃から、遊びが面白く、酒がすすめば時間を忘れ、ついつい午前様の日々が続いた。

それでも祖父は自分が帰るまで夕事勤行を待っていた。午前様になって帰ると、祖父が「帰ったか。お夕事をするぞ」と、仏間に入り灯心に火をつけ、ただお勤めをする。そんな祖父が疎ましく思え、待っとらないいなといつも思って午前様をしていた。

九州の夕刻は本州とは半時間ほど遅く、野良仕事を終え片づけが済むのは8時半頃であり、父や母は野良仕事の疲れから早く寝たいが、私が帰るまで夕事勤行をしない祖父に遠慮をし眠れなかった。ある日母より、皆困っているから早く帰るようたしなめられた。それからは、早く帰るよう心がけたが、よく午前様になった。だが祖父は文句の一つも言わず、ただただ自分が家に戻るのを待ち、一緒にお夕事をする生活をしてくださった。

おかげで、現在も必ずお内仏に手を合わせて、お勤めをし念仏申さないと眠れない身にしていただいた。本当に祖父こそ、私に念仏を教えてくださった人です。と、このように祖父を善知識といただかれておりました。

中村元氏の『仏教語大辞典』には、恩を知る人の言語は「カタンニュー」、直訳すれば「なされたことを知る者」とあります。

如来大悲の恩徳は

身を粉にしても報ずべし

師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

と、恩徳讃をいただく度、「なされたことを知る者」どころか、弥陀大悲の恩徳を忘れ、釈尊そして三国七祖をはじめ善知識の恩徳を忘れる生活に身が縮む私です。

032報恩講

金森了圓

今年も報恩講の季節となり、本山をはじめ各末寺、門徒で報恩講が勤められます。報恩講は、親鸞聖人が亡くなられた日を縁として聖人のご苦労を偲び、一人ひとりが念仏に生き、仏恩を報ずる身となることを願う、真宗門徒として一年を通じ最も重要な仏事であります。

私は物心ついた幼少の頃より『正信偈』をいただき育てられました。「帰命無量寿如来」→「無量なる寿(いのち)として如来の命に帰ります」と聖人は、私たちに生まれた意義といのちの尊さを教えてくださいました。

私たちはすべてが自己中心的で、いのちまでも自分のものと思っていますが、果たして自分のものなんでしょうか。自分のものは何事も自由に指定できるものが自分のものです。しかし「生老病死(しょうろうびょうし)」を見れば、どれ一つ思うようにはなりませんので、私のものではありません。無量寿とは仏より賜ったいのちであります。だから尊いのです。

今年もあと僅かになりました。物は豊かになり夢のようなことが達成され、誠に喜ばしいことでありますが、その反面自殺者が毎年増加をたどり3万4千人を越すと報じられ、過日は小学6年生女子の殺人等、誠に悲しいことです。これにはいろいろと原因があると思いますが、現代はいのちの尊さが次第に失われつつあるのではないかと思います。今この時にあたり、以前読んだ宇野正一さんの「不運」という詩が思い出されます。

生きる望みがありません

私は死にます

ごめんなさい

お母さんと

二人の少女が鉄道自殺をした

それは彼女たちが

十七才の今日までに

「人身受け難し」の一言を

ただ一言を誰からも聞かなかった不運であったと悲しんでおられます。私はこの詩を聞き、平素軽く口癖に「人身(にんじん)受け難(がた)し」の三帰依文(さんきえもん)をいただいている自分が恥ずかしく思われ、同時にいのちの重さを感じました。

聖人のご出世がなかったならば、私はいのちの尊さを知らず流転をしなければならなかったことを思うにつけ、聖人のご恩の深さを思わずにはおれません。

031「報恩講」に思うこと 

員辨暁

以前、マスコミの方が、本山報恩講に参られたおばあさんに次のような質問をされたそうです。「おばあさん、今日はここで何をお願いされましたか?」するとおばあさんは「御開山に申し訳ないと報告に来ました」と答えたそうです。なんだか、その答えにキョトンとしたマスコミの方の顔が浮かぶようです。

さて、昨年の法語カレンダーに「人間はものを要求するが、仏はものを見る眼(まなこ)を与えようとされる」という言葉が書いてありました。普段、私たちは仏さまに手を合わす時には、何かものを要求していることが多いようです。

しかし、浄土真宗のご本尊である阿弥陀さまは、そんな「私たちが何かを要求し、ものを与えていただく仏さま」ではございません。そうではなくて、私たちに「ものを見る眼を与えようとされる仏さま」なのです。このことを逆に言うと、私たちは「ものを見る眼」を持っていないということになります。

では、どこで私たちは「ものを見る眼」を持ってないということが言えるでしょうか?

私たちは日常生活の中で、よく「こんなはずではなかった」という言葉を口にします。つまり、私たちは当てにならないものを、常に当てにしているのです。最初から最後まで、きちっと当てになるものを当てにすればいいのですが、悲しいかな私たちは、この「ものを見る眼」を持っていません。勝手な自分の思いの中で、「あれさえあれば幸せになるだろう、これさえ手に入れば幸せになるだろう」と、あれやこれやといろんなものを手に入れるわけです。でも、その手に入れたものは本物ではないですから、いずれ当てにならなくなって「こんなはずではなかった」という言葉が出てくるのです。

今年も報恩講の時期がやってまいりました。私たちが「阿弥陀さまに何かを願う」のではなく、「阿弥陀さまは私たちに何を願われているのか」を聞いていくことが大切なのです。

030私にとって聞法とは

桑原克

今年の春、手次のお寺の住職交代に際し、本山での住職修習に門徒総代として参加させていただき、真宗門徒として生きる使命の重大さを感じました。

毎月の同朋会で、真宗の教えを聞かせていただいておりますが、ただ真宗に関する知識が増えるだけで生活が開かれない。一体我々の学びとは何か、日々問われておるのが、同朋会運動だと思うのです。同朋会運動とは答えを出す運動ではなく、限りなく限りなく、私ども念仏者の信心を問い、我々の生活それ自体を問い続けてくださるのが、同朋会運動ではないでしょうか。そういうことをお互い一人ひとりが、同朋会運動を自分の生きる生きざまにまで具体化していくという、新しい真宗門徒としての使命をいただく、ご用をいただく、そのご用をいただくということが助かるということではないでしょうか。限りのないご用をどこまでもどこまでも生涯をかけていただくということ、それが恩徳であり、真宗に遇い得た恩徳です。

私たちの聞法が、自分だけの幸せを喜んで感謝している。自分だけの世界の中に閉じこもって、自分だけのことを喜んでいる。そんなところには同朋と呼ばれる世界は開かれません。いま一度、私にとって聞法とは何か、常識を問い返すこと、心理問題にまで深めること、問題を見逃さない、見識をもった生活を行うことです。そして、真宗は感謝の教えではない、感動の教えと聞いています。また仏法は聞きぬけ、聞き破れ。身で聞けとも教えられています。

まことの言葉に出遇うとハッとします。一瞬、真実の言葉に出遇ったから、ハッと響く、一瞬響く、その世界。仏法に出遇わせていただいて、初めて生活が始まる。

毎日、毎日が初事でございます。「なんまんだぶつ なんまんだぶつ」

029「たすけられる」ということ 

池田徹

念仏によって「たすけられる」ということは、どういうことでしょうか。思いますに「すでにたすかっている」ということに気づくことが「たすけられる」ということではないかと考えています。

では「すでにたすかっている」ということの意味は、どういうことでしょうか。いつでも・どこでも・どういう状況でも、「今・ここの・私」として「しなければならないこと・できること・したいこと」があるということです。その人にだけ与えられた「現場」と、その人にしかできない使命と責任があるということです。「もともと特別なオンリーワン」という歌がありましたが、その言葉と相通じていきます。しかし、我々は、その使命と責任が与えられているにも拘らず、都合のいい現実には向き合いますが、都合の悪い現実に対しては、絶対拒否します。存在自体は都合の善し悪しに関係なく、出会っている現実を受け入れて生きているのですが、心が認めないのです。よく考えますと、それがたとえどんな現実であっても、まずそれを受け入れるということがないと何も始まらないのです。受け入れればそこから新しく始めていけるのです。「一歩」足を挙げて、立ち上がっていけるのです。

しかし、我々は、先ほど述べたように、いつでも現実に対して自己中心的に善し悪しを決めつけ、善きものは受け入れ、悪しきものは排除するという生き方になっているのです。だから都合の悪い現実に出会ってしまうと、それを徹底的に排除し、生きることが始まらないのです。その「現場」を本当に生きることにはならないのです。事実はその現実を生きているけれども、自己中心的な心によって、生活が生き生きしないのです。自分が生きているのに、自分を生きたことにしない傍観者的・被害者的人生としてしまうのです。
実は我々のこの生き方が、どれほどいのちに対して、自己に対して、他者に対して暴力的であるか。我々の日常の心、善し悪しの心は「存在への暴力」としてはたらいているのです。

念仏による救いとは、その罪の身を知らされることを通して、「今・ここの・現実」に還り続けていくこと、「今・ここの身を生きるもの」に育てられていくことです。具体的に「普(あまね)くもろもろの衆生と共に」苦労していける人間に育てられていくことです。他者と関わり続けていける意欲を賜ることだと思っています。

028普遍なるもの

佐々木達宣

今年の夏休み、家族旅行で上高地へ出かけました。ご存知のように、上高地は穂高連峰に囲まれており、そのすばらしい眺望で有名な観光地です。若い頃は重いザックを背負って、北アルプスの槍や穂高と渡り歩いたものですが、今ではそうした山々を麓(ふもと)から見上げることが多くなってきました。今回の旅行も上高地散策が目的だったのですが、梓川沿いの山道を徳沢方面から若い登山者が日焼けした顔で満足げに下山して来るのを見ると、自分もまたチャンスがあれば、などと突き出たお腹を見ながら少し寂しく考えておりました。

河童橋で写真を撮っていると、初老の男性が奥さんに「20年前とちっとも変わっていないねぇ」と話しかけておられました。きっと20年前にもお二人で来られたのでしょうか。その日も河童橋界隈は、街中のような賑わいでした。ここを訪れる人々の中には、変わらないものに対する憧れ、尊敬、畏れ、安心、そうした様々の思いで訪れる方もおられるでしょう。確かに上高地は観光地として日々変化しています。でもそこから見上げる穂高の山並みは、太古の昔より変わらない姿を我々に見せているのです。

蓮如上人は『御一代記聞書(ごいちだいきききがき)』において「仏法をあるじとし、世間を客人とせよ」(真宗聖典883頁)と教えられました。私たちは日々社会の中で生活を営んでおります。ですから我々の考えや行動を具体化する場として、世間は大切にしなくてはいけない。でもそれより大事なことがあります。世間での約束事や価値観は、社会がめまぐるしく変化するのに応じて変わってしまいますが、仏法は普遍であるということです。そうした「普遍なるもの」を拠り所として生きることこそが「仏法をあるじとする」生き方なのです。

現実社会に生きる我々は便利さを求めて、変化するものはすぐに古くなることに気づかず、新しいものに飛びつきます。本当に新しいものとは、私たちの意識や生活の中に形を変えず、そっと寄り添っておるものではないでしょうか。

027「彼岸」について

渡邊浩昌

「彼岸」が私たち日本人の心の中から失われつつあるように思われます。それは、実態的な「極楽」とか「あの世」という「彼岸」の喪失ということではなく、私たち日本人があらゆるものを「自分という立場」のみでしか周りを見ず、また物を考えず、異なった立場に立って…ということが無くなったということです。

例えば「それが私にとってどんな意味があるのか」「それが私にとってどう関係あるのか」といった物の見方、物の考え方です。意味を求める生活は私自身においては高校時代の頃からではなかったかと思われます。「こんな受験勉強が私にとってどんな意味があるのか」「こんな仕事をしていて自分にどんな意味があるのか」と、現に今していることに空しさを感じ、しかも軽蔑すらもしていたかと思います。

そんな中で出会ったのがフランクルの言葉です。フランクルという人は『夜と霧』という作品で有名です。彼はアウシュビッツでの強制収容所の中で他の囚人たちが自ら命を絶っていくのを目の当たりにしました。その時、多くの人たちが残していった「私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていない」という叫びに対し、「人生から何を我々はまだ期待できるのかが問題なのではなく、むしろ人生が何を我々に期待しているのかが問題なのである」と、その見る立場、考える立場の転回を力説しています。

『無量寿経』には、世自在王仏と法蔵比丘の出会いが表明されていますが「時に国王ましましき。仏の説法を聞き心に悦予(えつよ)を懐き…」

そこでは自らの立場でのみ物を見、物を考えることしかできなかった国王が、仏の説法を聞くことにより、初めてその呪縛から解き放たれたその悦びが表明されています。そして、求道者法蔵比丘としての新たな歩みの始まりが謳(うた)われています。

彼岸にあたって、私たちは「人生からの問い」「彼の土からの呼びかけ」に耳を傾けるべきではないかと思われます。

026転悪成善

芳岡恵基

以前、NHKのテレビ番組『プロジェクトX』の中で放送された「ツッパリ生徒と泣き虫先生~伏見工業ラグビー部・日本一への挑戦」を観た時に、たいへん心を打たれました。主人公の先生は、元ラグビー日本代表の山口良治さんでありまして、教師としてはじめて伏見工業に赴任されたところから番組が始まるのですが、当時の伏見工業とは「日本一の荒れた学校」と呼ばれるぐらい事件や事故が絶えることはありませんでした。そんな中、ラグビー部の監督として生徒たちと向かい合うわけですが、当然部員たちからは猛反発を受け、まともな練習ができない状態で一年が過ぎる中で、初の公式戦である春の京都府大会を迎えることになりました。初戦の相手は、名門花園高校であり、日本中にその名が知られた強豪チームで、当然のように、一方的な試合内容になり、後半15分には、80対0とワンサイドゲームになってしまいました。

その時に山口先生の身体の奥から、堪えきれないものがこみ上げ、大粒の涙がこぼれ落ち、「この子どもたちは、今どんな気持ちなんだろう。めちゃくちゃにやられて悔しいやろな、歯がゆいやろなと思った時、俺は今まで生徒たちに何をしてやったんやと、初めて自分に目が向きました。そして、俺は元日本代表だ、監督だ、教師だと思い上がっていた自分に気づき、本当にすまんと思って、あの涙の中で生徒たちに謝っていたんです」と言われました。

私はこの言葉を聞いた時、山口先生がまるでお念仏されているかのような尊いお姿に出会わせていただいた思いでありました。山口先生はその後、生徒と心が通じ合い、ラグビー部は一年後には京都を代表するまでに育っていったようであります。

025迷い道

三浦統

ある峠道、自転車を押して山を越えようとしているおばあさんを、車で追い越しました。辺りはもう真っ暗です。不思議に思い、引き返して、何処まで行かれるのか尋ねてみました。するとおばあさんは「わからん」とおっしゃいます。「何処から来られたのですか」と尋ねてみても「わからん」とおっしゃいます。疲れもあったのでしょう。イライラしたり私におびえたような目をしたりと、私を信用して話をしてくれるまでにずいぶんと時間が必要でした。おばあさんは病院から親戚のお家へ向かう途中、完全に方向を見失い、いま自分が何処へ向かっているのか、自分が何処にいるのか全く分からず、ただただ不安をかき消すかのように目の前の道を正反対の方向とも知らずに、体力の限り歩いていたのでした。

ふと思いました。私は自分の人生の行き先と現在地を本当に分かっているのだろうか。目の前の道を一生懸命歩き、その一生懸命さに満足しているだけで、実は自分の立っている所も分かっていないのではないか。だとすれば、道に迷ったおばあさんのように、不安に押しつぶされそうになりながら、人を信用することもなく、ただ体力を消耗していくだけの人生になりはしないか。そう思い、少し怖くなりました。

明治を生きた仏教者、清澤満之先生は、「我々がこの世で生きていくためには、必ずひとつの完全な立脚地がなくてはならない。もしこれなしにこの世で生活し、何事かを行うとするなら、それはちょうど浮雲の上で技芸を演じるようなもので、転覆を免れることができないのはいうまでもない。ではどのようにして我々は完全な立脚地を獲得するべきであろうか。おそらくは絶対無限者にたよる以外にうつべき手はあるまい」と、教えてくださっています。

絶対無限者、つまり阿弥陀仏をたよるほかに、迷うことなく人生を歩いていくことができない私なのです。そんな私の事実を、改めて確認させてくれた、おばあさんとの出遇いでありました。

024いのちを感じる

松下至道

終戦記念日の夕方、墓参りに行った時に見た光景です。家族連れで来られていたんですが、ヤブ蚊が多くて蚊をたたく音が聞こえてきました。家族連れに、まだ30才前後の若いお母さんと、4、5才の男の子がいたんですが、その子が持ってきていた殺虫剤を、蚊のいそうな所に吹きかけ始めたんです。近くにいたおばあさんらしい人が、その子に対して、「あっちにも吹きかけな、こっちにも吹きかけな」と言って、蚊のいそうな所を指して、殺虫剤を吹きかけるのを勧めていたんです。すると、男の子の横にいた若いお母さんが、男の子を捕まえて優しく叱ったんです。「刺されてたたくのなら、まだ仕方がないけど、刺していない蚊まで殺すのはやめなさい。蚊にもいのちがあるのよ。まだ生きているんだから」

私は隣のお墓で、そのお母さんの声を聞いて、何か感動に似た思いをもちました。自分だったら、あのお母さんのように言っただろうか。ふとそう考えた時、ゴキブリやムカデなど、見た瞬間に殺そうとしている自分の姿が浮かびました。別に危害を加えられたわけでもないのに、ただ気持ち悪い、かまれたらどうしようというだけで…。

現在、イラクでは日常的にテロが起こり、毎日何十人ものいのちが奪われています。そもそもイラク戦争をアメリカが起こした理由は何だったのでしょう。「大量破壊兵器を持っているから、事前に危険を摘み取るため」でした。私には、蚊のいそうな所に殺虫剤を吹きかけていた男の子、それを勧めるおばあさんの姿がアメリカとアメリカに追随する日本の姿とだぶりました。人間は、人間相手でもそういう姿で対しているんだと。それは、私自身の姿とも重なったのです。

終戦記念日にお墓で、若いお母さんから聞いた言葉は、いのちの尊さを考えさせられる良いご縁となりました。「(われ)当(まさ)に世において無上尊(むじょうそん)となるべし」というお釈迦様のお言葉があります。このお言葉には、自分自身の命は何ものにも比べられない尊さがあるのだということを教えてくださっています。他と比べて尊いのではないのです。比べられない尊さなのです。南無阿弥陀仏というお念仏も、その何ものにも比べられないいのちの尊さにうなずいて生きて欲しいという仏様の願いのこもった言葉なのではないかと思います。