藤岡法水
最近、教育現場で「個性を生かす」とか「自分らしさ」などという言葉をよく聞きます。
一人一人に応じた教育をするという意味では、とても素晴らしいことのように言われます。社会的な風潮でも「自分らしく生きる」ということが美化されているように感じられます。しかし、これは受け取り方を間違えると「自分は自分なのだからこれでいいのだ」という単なる自己満足に陥りかねません。こうなってくると、周囲との関係が薄くなってくるとともに、本当の自分の姿が見えなくなってきます。「自分らしさ」を自分の基準でしか見ないため、その姿がどうあってもその姿を良しとしてしまい、自分が周囲との関係性の上で成り立っていることに気づかずにいるのではないかということです。ですから、基準で認められないものは受け入れようとはしません。「自分は罪悪深重の凡夫である」と自分の都合の良いところで自分勝手に開き直っているだけと言ってもよいのではないでしょうか。
「自力を尽くさないところに他力は見えない」ということを聞いたことがありますがが、このような姿はまさに自力を尽くすことも何処かへ行ってしまっており、当然、自分のいのちが多くのいのちの上に成り立っていることにも思いが及びません。
一一のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし(真宗聖典482頁)
という御和讃があります。浄土を讃える御和讃です。一つひとつの花がそれぞれの光を出して輝いているというものですが、これは決して自己満足の輝きではないはずです。周囲との関係性の中に身を置いて、他力によって生かされている己の姿が照らされてこその光だと思うのです。それは本当に「自分らしく生きる」ということなのではないでしょうか。