012仏法は難しい? 

藤谷英史

門徒さんから「ご院さん、仏法の話は難しいですなぁ」とよく言われます。そんな時「健康の話や子育ての話とは根っこのところが違うのでしょうね」と返事をします。

ところで、ある会合の休憩時間の雑談でこんな話がありました。その女性は、公民館の近くで小さい子どもを連れ、その子の先を歩いて行く若いお母さんに出会ったとのことです。その時、たまたまその子が何かに躓いてひどい転び方をしたため、とっさにその子を起こしてあげたのだそうです。そのことに気づいた母親は、礼を言うどころか不満気な顔つきで、泣く子の手を引いてさっさと行かれたとのこと。それで、当の女性はついムッとして、そして礼も言わずに「何と失礼な!」と思ったというのです。

失礼なその母親はさておき、転んだ子どもを起こしたこの女性の心の中には「起こしてやったのに」というお礼の言葉を求めているものがあったのではないでしょうか。

私たちはどんな時であれ、ある結果を正直に受け止めようとする心とは反対に、現実は自分に都合のいいように考えたり、思うようになると思い込んでいる自分に気づかず、その通りにならないと、暗い気持ちになっていることが多いようです。

仏法の話のポイントは、不満や怒り、嫉み心の虜になってしまって何か暗い気持ちでいる自分が真宗の教えに出遇い、そこから開放される本当の自分に出遇うことが課題なのでしょう。ですから、自分の痛いところを言い当てられ、心の奥底をさらけ出さなければいけないだけに、つまり自分の痛いところを認めること、そのこと一つが難しいのでしょう。このあたりの事情を、妙好人と言われ、信心のエキスのような言葉を残してくださっている因幡の国の「源左さん」が「むつかしい むつかしいいって わがむつかしゆうすっだけのう」…つまり難しい、難しいと言って、その自分が難しくしているだけなんだ…と言い当てておられます。

仏法は難しいのではなく、難しいと思っている人が難しくしているのでしょう。