011父の死の事実 

木村郁子

ある日、私は時計ばかりを見ていたのを思い出します。担当の園児が発表会の不安でぐずっていたので、早く落ち着いてくれたらとばかり願っていました。その時間に父が亡くなっていようとは思いもよりませんでした。夫の知らせに実家へ車を走らせながらも、治療して家に戻っているだろうと自分に信じ込ませていました。でも、横たわっている父は話しかけてはくれませんでした。

通夜の時に、ストーブの前でウトウトしながら休んでいると、父が元気に「また来たか」と起き上がってくる幻想に何度もとらわれ、その度に父を見に行きました。もう少し早く医者へ行っていたら、もっと早く治療の方法があったのでは、という思いと献体を希望し、何も残さずに逝ったことが余計にまだ何処かに居るに違いないと思い込ませているのでした。

冬も過ぎ、春の永代経でのご法話の中に「仏法は春の雪がすぐに融けるようにいつも新しいが、人間の思いは冬の雪がすぐには融けず残るように、いつまでもいつまでも引きずっている」というお話を聞いた時に、私は百ヶ日を迎えようとしていた父の死の事実が未だに受け止められていなかったことに気づかされました。事実を事実として見られず、人間の身体が有るか、無いかで執着していたようです。父が何処かに居るのではなく自分の問題でした。

都合よく生きたい自分ですが、都合悪いことにも「それは良かった」と答えてくれた父の言葉を忘れずにこれからも毎日の生活の中に聞いていきたいと思います。