藤本愛吉
私が初めて生きたお念仏を称えておられる方に出会ったのは、もう30年以上も前のことです。その方は私の通信教育の大学時代の先生でしたが、先生に出会って初めて、私は深い驚きと共に自分に不安を覚えたのでした。
教室の前に立たれている先生の存在、また静かにお念仏を申されながら話される言葉の一つ一つが私を強く引きつけて止まないのです。思わずノートをとらずにおれないような何かが、先生の言葉の響きにありました。
そのお話の中でも、鳥の一生になぞらえた、人間の深い目覚めの生のお話を聞いて、「ああ、私も先生のところにある、深い確かな目覚めをしたいなぁ」と素直に思いました。
先生はインドの詩人、タゴールの言葉を引用されて、次のような話をされたのでした。
「ヒナは自己中心に孤立した卵の殻を破って出て、光と大気の自由を勝ち取り、鳥の生を成就する。殻は、外にどんな広い世界があるかを見えなくしている。その中はどんなに快くても、それは一撃を加えて打ち破らなければならない」(R・タゴール『生の実現』)
こういうお話しを通して私は初めて、人間は目覚めていくものであるという性質があることを知らされ、鳥の生の誕生のように目覚めていくことが、いのちの秘められている願いだと知ったわけです。
その目覚めていくいのちが「無量寿」と言われているのです。「無量寿」について、信国淳先生は「私どもは自我意識に生きる者としていのちを私有化し、私物化しながら、それをそれぞれ自己一人だけの生きる《命》(みょう・いのち)にしてしまっているのですが、しかしそういう私どもも、皆等しく、皆悉く、同じ一つのいのちを与えられてこそ生きることができているのですね。その同じ一つのいのち、それが無量寿といういのちなのです。それがアミダ(a-mita)なるいのち、つまり無量寿と言われるいのちなのです。」と示せれています。
共にここまで目覚めていきたいと思います。