004生きた声明(しょうみょう) 

檉歩

昨年4月より桑名別院の列座として勤めさせていただくようになり、正信偈等のお勤めをする声明や法要の儀式・作法を学ぶ機会が多くなりました。その中で声明というものは実に奥深いものだと感じるようになりました。

最近ではカセットテープやCD等でもお勤めの練習ができるようになってきました。もともと声明を学ぶ方法は、口伝だと言われております。口伝とは、人と人との間で直接言葉によって伝わってきた歴史のことであります。

仏教の始まりは、釈尊の教えを聞いていたお弟子が、釈尊が亡くなると、弟子から又弟子へと釈尊の説法が伝えられてきました。ですから、声明も先輩から伝えられたものを後世に伝えていくことが大切だと言われています。

その中で伝わってきた声明は、今もたくさんの先生のいろいろな教え方があります。そのため人それぞれの聞き方、理解の仕方、称え方によって少しずつ変化してくるので、教わる私としては混乱することがよくあります。しかし、先生方の声明も合っているとか、間違っているとかということは言えないのではないかと、最近、思うようになりました。

もともと一つの称え方だった声明が、たくさんの先輩方や時代、地域の中で伝わってきました。私の地域では、他宗派のお勤めと混ざって困惑することもありますが、それはその場所で伝わってきた口伝の歴史ではないでしょうか。

これからたくさんの先生のいろいろな教え方に出会うと思います。その一つひとつの教え方は今日まで人から人へ脈々と受け継がれてきた生きた声明の歴史として受け止め、お勤めをしていきたいと思います。