田代俊孝
「南無というは帰命なり、またこれ発願回向(ほつがんえこう)の義なり」(真宗聖典840頁)
蓮如上人の『御文(おふみ)』に再々引かれる善導大師のお言葉です。理屈ではともかく、この言葉の意味こそが私には長らく頷けませんでした。なぜ、南無が発願回向なのでしょう。
ある時、大学へ行っているわが子たちの振る舞いを見ていてふと感じました。毎月の仕送り以外にも、あれこれとお金をねだるこの子たちは、親をどう思っているのだろうか。親は子を育てて大学へやるのは、当たり前だと思っているのではないだろうかと。親は子に奉仕するものと思っているのではないだろうかと。
思えば、この私も学生時代にそう思っていました。この歳になってようやく、親の願いに気づいて頭が下がります。田舎の小さい寺の住職をしていた父が、どうして男三兄弟を大学まで行かせることができたのでしょうか。今、自分が子を持ってようやく親の願いが受け止められました。
仏の願いもまた同じことかもしれません。南無とは梵語のナマズで、インドの人は、今でもナマステと手を合わせてお礼をします。中国の言葉ではそれを帰命と訳します。帰命とは「頭を下げる」のではなく「頭が下がる」との意味です。仰ぐべきものに出会った時に、自ずと頭が下がるのです。私たちは自分の力で生きているんだと力んでいます。その私の自我が砕かれ、絶対無限の妙用(みょうゆう)に生かされ、支えられていると気づかされた時、つまりその大いなる願いに気づかされた時、南無と頭が下がってくるのでしょう。
南無とは、まさしく法蔵菩薩の発願された願いが回向されてきた姿だったのです。もちろん、そこに報恩の情も湧いてくるのです。