001呼応するいのち

出雲路善公

新年明けましておめでとうございます。皆様方は昨年どういう年を過ごされましたでしょうか。私たちを取り囲む社会状況にはずいぶん様々なことがありました。年頭の言葉として、「呼応するいのち」ということを述べました。昨年師走に入り、一年間を振り返るにあたり、心に浮かんだ言葉です。

例年のごとく年末が近づいてきますと、あちらこちらから「喪中につき年始のご挨拶は失礼いたします」という寂しい便りが何通かまいります。その便りを手にしました時、思いは種々動きますが、年頭の挨拶は年に一度の挨拶である場合でもありますので、私は申し上げることにしております。かつて金子大栄先生が「この年になると、年々親しい老若男女が亡くなっていかれます。年々彼の土はにぎやかになりますなあ」とおっしゃっていたことを思い出します。先生が亡くなられてからずいぶん久しいことですが、年末年始になりますと、いつも思い出される言葉です。生きてある人々に思いをはせ、すでにこの世には亡き人々を憶念されている先生のご心情が偲ばれるお言葉です。いのちは、人の思いを超えたものだと教えられておられます。その通りだとうなづかされます。思いを超えたいのちであるならば、生死をも超えているに違いありません。生死をも超えて呼応するのは当然のことでしょう。思い、分別を超えてあるいのちに垣根があるはずがありません。にもかかわらず私たちは老少善悪、貴賎上下、軽重大小などの差別視しかできない自分自身を否定できません。年々歳々、垣根を築き上げ、それを一生懸命に補強している、わが身を恥じずにはおれません。蓮如上人は、歳末のお礼に来られた人々には「歳末の礼には、信心をとりて礼にせよ」とおっしゃり、年始の挨拶に道徳には「念仏申さるべし」と応えられたそうです。年末、年始は心改まる時といわれます。その時にまでも、分別・名利の垣根を築き上げてしまおうとするわが心根を戒め、帰命に身をすえ、この一年を過ごして参りたいものです。