藤井慈等
親鸞聖人の書かれた『教行信証』の「信の巻」に、『涅槃(ねはん)経』という経典の言葉が引かれています。それは「慙愧(ざんぎ)あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」(真宗聖典258頁)という言葉であります。
慙(ざん)も愧(き)も「羞(は)じる」という意味ですから、慙愧というのは「頭が下がる」ことだと教えられています。つまり頭が下がるところに、人と人との本当の繋がり、出遇いが生まれることであります。
私は今、一週間ごとに、昨年暮れに亡くなったあるおばあさんの中陰のお逮夜にお参りしております。実はそこで、この「慙愧」という言葉を紹介したのです。そうしますと、それを聞いておられたおばあさんの息子の一人が、こんな話をしてくれました。多分、お葬式が終わった後のことでしょうが「おばあさんもこれで楽になったんじゃないか」と、夫婦で話をしていたそうです。ところが、それを聞いていた子ども、おばあさんの孫が、「あんたら、何ということを言うとるんや!」と、泣いて怒って抗議したというのです。そこで、このおばあさんの息子は「子どもの一声で親のほうが教えられました」と、語ってくれました。
私はそれを聞きながら「あんたら、何ということを言うとるんや」という孫の言葉が「楽になった」ということと、その人の一生涯をどう受け止めるかということとは、問題の相が違うということを照らし出す「いのちの叫び」に聞こえました。実際、その人になってみなければ分からない、一人ひとりの重い人生を生きています。ところが、その生涯に頭が下がるというよりは、いろいろと評価し、意味づけ、それによってむしろ自らを無罪放免にする、限りない自己否定が覗いてくるのです。
いくらかの人生経験や聞法経験を答えとして、そこに腰を下ろしている私たちの小賢しさを「あんたら、何ということを言うとるんや」と一喝する、そんな仏さまからのお年玉をいただいたように思いました。
田代俊孝
「南無というは帰命なり、またこれ発願回向(ほつがんえこう)の義なり」(真宗聖典840頁)
蓮如上人の『御文(おふみ)』に再々引かれる善導大師のお言葉です。理屈ではともかく、この言葉の意味こそが私には長らく頷けませんでした。なぜ、南無が発願回向なのでしょう。
ある時、大学へ行っているわが子たちの振る舞いを見ていてふと感じました。毎月の仕送り以外にも、あれこれとお金をねだるこの子たちは、親をどう思っているのだろうか。親は子を育てて大学へやるのは、当たり前だと思っているのではないだろうかと。親は子に奉仕するものと思っているのではないだろうかと。
思えば、この私も学生時代にそう思っていました。この歳になってようやく、親の願いに気づいて頭が下がります。田舎の小さい寺の住職をしていた父が、どうして男三兄弟を大学まで行かせることができたのでしょうか。今、自分が子を持ってようやく親の願いが受け止められました。
仏の願いもまた同じことかもしれません。南無とは梵語のナマズで、インドの人は、今でもナマステと手を合わせてお礼をします。中国の言葉ではそれを帰命と訳します。帰命とは「頭を下げる」のではなく「頭が下がる」との意味です。仰ぐべきものに出会った時に、自ずと頭が下がるのです。私たちは自分の力で生きているんだと力んでいます。その私の自我が砕かれ、絶対無限の妙用(みょうゆう)に生かされ、支えられていると気づかされた時、つまりその大いなる願いに気づかされた時、南無と頭が下がってくるのでしょう。
南無とは、まさしく法蔵菩薩の発願された願いが回向されてきた姿だったのです。もちろん、そこに報恩の情も湧いてくるのです。
出雲路善公
新年明けましておめでとうございます。皆様方は昨年どういう年を過ごされましたでしょうか。私たちを取り囲む社会状況にはずいぶん様々なことがありました。年頭の言葉として、「呼応するいのち」ということを述べました。昨年師走に入り、一年間を振り返るにあたり、心に浮かんだ言葉です。
例年のごとく年末が近づいてきますと、あちらこちらから「喪中につき年始のご挨拶は失礼いたします」という寂しい便りが何通かまいります。その便りを手にしました時、思いは種々動きますが、年頭の挨拶は年に一度の挨拶である場合でもありますので、私は申し上げることにしております。かつて金子大栄先生が「この年になると、年々親しい老若男女が亡くなっていかれます。年々彼の土はにぎやかになりますなあ」とおっしゃっていたことを思い出します。先生が亡くなられてからずいぶん久しいことですが、年末年始になりますと、いつも思い出される言葉です。生きてある人々に思いをはせ、すでにこの世には亡き人々を憶念されている先生のご心情が偲ばれるお言葉です。いのちは、人の思いを超えたものだと教えられておられます。その通りだとうなづかされます。思いを超えたいのちであるならば、生死をも超えているに違いありません。生死をも超えて呼応するのは当然のことでしょう。思い、分別を超えてあるいのちに垣根があるはずがありません。にもかかわらず私たちは老少善悪、貴賎上下、軽重大小などの差別視しかできない自分自身を否定できません。年々歳々、垣根を築き上げ、それを一生懸命に補強している、わが身を恥じずにはおれません。蓮如上人は、歳末のお礼に来られた人々には「歳末の礼には、信心をとりて礼にせよ」とおっしゃり、年始の挨拶に道徳には「念仏申さるべし」と応えられたそうです。年末、年始は心改まる時といわれます。その時にまでも、分別・名利の垣根を築き上げてしまおうとするわが心根を戒め、帰命に身をすえ、この一年を過ごして参りたいものです。
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