『心をひらく』第25号をお届けします。
最近、お世話になった先生がよく口にしていた「姥捨て山」の話が思い出されます。
お話は、単なる道徳的な例え話ではありません。
息子は、村の掟で捨てに行くのだからとか、親が長生きすると子どもの食べ物が少なくなるので仕方がないのだという理屈をつけて、内心は気が進まないけども仕方がないのだと姥捨て山に母を捨てに行きます。なるべく家に帰ってこられないようにと分かれ道を右へ左へと曲がると、必ず曲がったこところで枝を折る母。「家に帰るつもりか」と思い、更に山奥深くまで母を背負っていく息子。母を捨てる場所が見つかって、最後に一言尋ねる息子。「母さん、どうして分かれ道にくると枝を折ったのか」「お前は日頃山に来たことがないから、帰り道迷わないように家の方へ向けて枝を折っておいたよ」と応える母。
殺される者が、殺す息子の心配をしていた。この事実が身に響いた時、母親の思いの中に息子の理屈が吸い込まれてしまった。そこで初めて自分の位置が決まったのです。山に向かっていた足が、具体的に母を背負って主体的に里に向かったのです。理屈や掟を越えて担う主体が誕生したのです。させていただいて喜ぶ主体が誕生した、心がひらかれた瞬間です。このひらかれた心に導かれて、私も生活していきたいと思います。