031報恩講

渡邊 浩昌

報恩講は、「如来大悲の恩徳は・・・」で始まる、いわゆる「恩徳讃」でもって締めくくりとします。研修会等の最後にも歌いますが、特に報恩講のお勤めには感慨深いものがあります。

言うまでもなく、「恩徳讃」は親鸞聖人制作の「正像末和讃」の最後にあるものです。そこでは如来と師主知識に対する恩徳が表現されていますが、直接的には法然上人に対する恩徳です。法然上人に出会うことがなかったならば、「このたびむなしくすぎなまし」とさえ和讃に述べられていることからもよく知られるところです。

古来、人との出会いということは、いかなる人においても大切な出来事ですが、特に信仰においては人との出会い、師との出会いは決定的な意味をもちます。親鸞聖人は法然上人との出会いにより聖人自身の人生が決まったのでしょう。その人生とは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という人生です。

「出会い」ということで思い出すのが亀井勝一郎さんのことです。亀井さんは親鸞聖人に強く惹かれ深い研究もされていた方ですが、自分が心から念仏申すことができないのは「生ける導師」に出会わなかったことによると述べておられます。親鸞聖人に帰依されているが、心から念仏申すことができないというところに亀井さんの「もどかしさ」と「空しさ」があったのではないかと思われます。

真の知識にあうことは
かたきがなかになおかたし
(真宗聖典499頁『高僧和讃』)
と親鸞聖人は和讃されていますが、これは遭い難くして遇い得た聖人の歓びと深い懺悔(さんげ)の表白(ひょうびゃく)ではないかと思われます。