松下至道
朝やけ小やけだ 大漁だ。
大ばいわしの 大漁だ。
はまは祭りの ようだけど
海の中では 何万の
いわしのとむらい するだろう
「大漁」と銘うたれた、童謡詩人金子みすずさんの詩です。ご存知の方も多いでしょう。
大漁と喜ぶ人々の見えないところで、魚たちは弔いを出して悲しんでいる。
私たちのいのちを育むために、他のいのちがその犠牲となってくれているという現実を詩にしてくださっています。いのちに対する深いやさしさ、悲しみの眼を感じます。
私は毎日、多くの動物や植物をいただいています。その中でうまい、まずいを言い、食べ残すこともたびたびあります。私のいのちの糧となる為に料理される肉や魚・野菜に対して私は、金子さんのような眼で見たことはなかったなぁと思いました。
私のいのちは、他のいのちの上にしか成り立たないものです。自分の思いなど関係ないいのちが抱える現実なのです。「私のいのちなんだから私がどうしようと勝手」「私の思い通りにする為には他人のいのちを奪ってもかまわない、仕方がない」最近のテレビニュースを見ていると、そういう思いが画面から見えてきます。
しかし、いのちは私の思いの中にあるものではありません。思いを超えて私を生かしてくれているものが、いのちなのだと思います。他のいのちの上にしか成り立たぬ私のいのち。そこには大きな悲しみがあるのではないでしょうか。仏教では、仏さまの私見てくださる眼を「大悲」といいます。そこにはいのちのもつ大きな悲しみがあります。仏さまは、私のいのちとなって、生きとし生きるものとなって、私に対して「いのちの悲しみに触れ、そのいのちを感じて生きて欲しい」と、そういう願いを念仏となって叫び続けてくださっているのではないでしょうか。
人間が本当に自分や他人を大切にするためにはそういういのちの悲しみを感じ、念仏となって出てきてくださる仏さまの願いを聞き続けていくことが大切なのではないかと思います。