片山寛隆
慌しい師走が押し迫りました。毎年一年が過ぎるのを早く感じるのは私だけでしょうか。
今年も想像をもしなかったことが次から次へと起こり、その起こったことを問い返す間もなく、次に関心が奪われていくといった時間に追われているのが、我々の日常になっています。
先日も、ある壮年の方が法要の席で「もっとゆとりをもって人生を考え、今を大事にしなければならないことは分かっていても、現実は生活に追われ、それどころではない」と言われました。
日常、生きるということは、厳しく大変な時代であります故に、経済と時間に振り回されていると言っても過言ではありません。一分でも遅れると取り返しのつかないことになったり、また或いは、一分一秒変化する株式市場の報道に一喜一憂するという社会です。
だから、現代を生きるということは、好む好まざるに関わらずそこを生きねばならぬ、故に時間と経済こそが絶対のものであるということがあります。確かに、我々が生きるということの上で、経済は大切であり、最も必要欠くべからざるものの一つでありますが、我々の先人は、このことを「お金は生きる上の大事な手段であって、生きる目的とはならない」と仰っています。
目的とはならないものを目的としてきたと気づかされてはじめて、手段としての経済や時間を見ていく眼をもつことなのではないでしょうか。そのような眼すべてを見て、受け止めてこられたのが、真宗門徒として生きてこられた先人から教えられることであります。
池井隆秀
新聞を見ると、氏名の横に黒い線の入った記事に目がいくようになりました。そして、その人の年齢を自然と見てしまうのです。自分も近づいてきたのかと。
毎日が慌しく、サラリーマン生活を送れば、いよいよ日々の過ぎ去ることの速さを通感します。朝起きて、一日が始まり、職場に出勤し、また我が家に帰宅する同じパターンの毎日、そんな生活をしていると月日は凄い速さで流れていきます。それは、そのまま「空過」(空しく過ぎる)ということに繋がっていきます。そして、そこから生じる大きな問題は、あらゆる事柄に無関心・無感動・無批判な生活に流されることではないかと思います。一度立ち止まって考える時間をもちたいものです。
ご門徒の元気な方が、ある日突然亡くなられました。私たちは、明日が保証されているものとして過ごしていますが、通用しないことです。葬儀を終えた後、いつも次のことについて確認させてもらっています。
一つは、お別れした人との出遇いがあったのかということです。最後のお別れですというのは、出遇いがあってのことです。過去に本当に出遇っていただろうかという確認を通して、これから出遇いが始まるということになるのではないでしょうか。
次に、亡き人は私たちを導いてくださる仏さまであり、決して崇ったりする存在ではないということです。ともすれば自分の都合で、亡き人が私たちを苦しみに陥れる存在として考えていないかということです。
最後に、亡き人は私たちに「お前も死ぬぞ」と教えてくださっているということです。無常のことわりを目の前にさらしてくださった存在です。
この三つの確認を通して、私たちの日常の在り方を問い尋ねることが求められていると思います。受けがたし人身を賜った私たちがどのように生きるのかという問いが生まれます。
84歳のおじいさんのお葬式でした。炉に遺体を収め、扉が閉められました。その時、長年連れ添った方が、突然扉の前で、大きな声で「お父さん、ありがとう」と言われました。その言葉が今も耳の底に残ります。
大谷俊子
12月に入りました。子どもの頃は一年がもっと長かったように思ったのですが、大人になってから一年はどんどん短くなっていきます。
最近、ミヒャエル・エンデの童話『モモ』を読み返してみました。時間泥棒から時間を取り返してくれた女の子モモのお話です。
モモは人の話を聞く天才です。モモに話を聞いてもらっていると、生きる勇気が湧いてきたり、自分の存在の大切さに気づいたりするのです。
ある時、人々は大切な時間を盗まれてしまいました。モモはそれを取り返しに出かけます。途中、モモは時間の源を司るマイスターホラに、なぞなぞを出されます。それは時間について尋ねる、とても示唆に富んだ問題です。今この瞬間はあっという間に過去になる、だから今は無いとも言える、でもこの今があるからこそ、未来が過去に変わっていく、そして過去と未来は現在で一つとなる。モモは見事に時間の意味をとらえました。
この謎解きを読みながら、私の中では、私たちお寺が学ぶ「後生」とか「業」とか「いのち」などの言葉が巡りました。続けてマイスターホラは言います。人間には時間を感じ取るために心というものがある。もし、その心が時間を感じ取らなかったなら、その時間は無いも同じなのだよと。そして、ついにモモは時間の源に辿り着きます。そこは美しい殿堂でした。光の振り子に合わせ、美しい花が咲いてはしぼみ、咲いてはしぼみして、辺りはいい香り、不思議なハーモニーの響きに包まれていました。まるでお浄土の光景に似ています。
ところで、私たちは、夢中になったあっという間を、後では長く感じたり、時間の長さをもてあましていると、後ではほんの短い時間にしか感じなかったりします。この逆さまの感覚も、マイスターホラがいうところの心が時間を感じ取ったかどうかだと思います。振り返った時、時間を感じ取るとは、感動を覚えたということでしょう。私の周りのどんな小さなことにも、モモの見つけた時間の花を咲かせたいものです。
渡邊 浩昌
報恩講は、「如来大悲の恩徳は・・・」で始まる、いわゆる「恩徳讃」でもって締めくくりとします。研修会等の最後にも歌いますが、特に報恩講のお勤めには感慨深いものがあります。
言うまでもなく、「恩徳讃」は親鸞聖人制作の「正像末和讃」の最後にあるものです。そこでは如来と師主知識に対する恩徳が表現されていますが、直接的には法然上人に対する恩徳です。法然上人に出会うことがなかったならば、「このたびむなしくすぎなまし」とさえ和讃に述べられていることからもよく知られるところです。
古来、人との出会いということは、いかなる人においても大切な出来事ですが、特に信仰においては人との出会い、師との出会いは決定的な意味をもちます。親鸞聖人は法然上人との出会いにより聖人自身の人生が決まったのでしょう。その人生とは「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」という人生です。
「出会い」ということで思い出すのが亀井勝一郎さんのことです。亀井さんは親鸞聖人に強く惹かれ深い研究もされていた方ですが、自分が心から念仏申すことができないのは「生ける導師」に出会わなかったことによると述べておられます。親鸞聖人に帰依されているが、心から念仏申すことができないというところに亀井さんの「もどかしさ」と「空しさ」があったのではないかと思われます。
真の知識にあうことは
かたきがなかになおかたし
(真宗聖典499頁『高僧和讃』)
と親鸞聖人は和讃されていますが、これは遭い難くして遇い得た聖人の歓びと深い懺悔(さんげ)の表白(ひょうびゃく)ではないかと思われます。
荒木百合子
今、改めて胸に手をやると、確かに響く心臓の鼓動が聞こえてまいります。母の胎内で動き始めてから絶え間なく、しかも正確に、日常生活を送る私を生かせてくれています。
人として生まれた私たちは、このいのちをいただいて今を生き、いったい何処へ行くのでしょうか。でも残念ながらこんな大切な問いかけすら考えもせず、日々当たり前のこととして、雑多でめまぐるしい現在を生きている私がいるのです。
映画の一シーンで、フーテンの寅さんが鳥羽の海を見ながらしみじみ言いました。「人はどうして生きているんだろうねぇ・・・」とても大きな問いです。本当に私もそう思います。人という字は、互いに寄り添い支え合ってできていると、私たちは皆助け合って生きているんだと、自分だけ一人だけでは生きていけない、周囲のありとあらゆるものによって支えられ、今このいのちを生きているのだと、様々なお話の場で、何度も聞かせていただいては、また忘れている私ですが、ある時には、ストーンと胸深く感動すら覚えて入ってくることもあるのです。
先日、新聞の読書欄で、JT生命誌研究館館長である中村圭子さんは、平安期の「『提中納言物語』の「虫めずる姫君」にも、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』にも、多少周囲の人々に迷惑をかける性格をもつこの主人公が、虫の本質や菌や植物を栽培して物の本体を探求しようとする姿勢に、「いのちあるものを愛づる者は、愛づる対象にもなるのである」と、興味深い指摘をされていました。また、「人への思いやりと、我が道を行く心意気とが重なり合ってこそ生きる意味があるのだ」とも言っておられます。
私たちは、善いことも悪いことも全部認めた自分を見捨てないで、いのちを愛づるという、尊く、いとおしく、慈しむこころをもって共に生きていきたいと思います。
松村 至
東員町に住んでおります、松村と申します。
数年前ですが、テレビの深夜番組で『皆月』という映画を見ました。妻に全財産を持って逃げられてしまった、冴えない中年サラリーマンを奥田瑛二さんが演じておられ、その奥さんが、家を出て行くときに残した手紙の初めが「みんな月でした、もう限界です」というテーマとなる言葉でした。その後、世の中であまり陽の当たらない部分を生きる、数人の人による、いわゆるエロ・グロ・ナンセンスを盛り込んで展開する物語ですが、非常にハッキリしたメッセージがありまして、それが、映画の最後のほうで奥田さんが扮する主人公によって語られます。それは「そうだ、人は皆、自分で輝くことができない、月なんだ」というものです。その言葉が明るさと確かさをもって語られました。「所詮自分では輝けないんだ」というのとは違って、「俺たちは皆月でしかない、しかし、月であることは約束されている。自ら輝くことのできない者として生きることは、何によっても邪魔されていないんだ」という響きがありました。「輝くことのできない者で結構」というのが、私の受け止めた映画全体からのイメージでした。
そういう私は、太陽も知らず、自分が月であることも知らず、いつか自分が輝いて、そして皆を照らしてあげたいなどとチョッと思いながら、うわ言のように「何とか輝きたい」「何で輝けんのだろうか?」とつぶやきつつ、お湯で薄めて、梅干を入れて潰した焼酎を、二杯・三杯・四杯と今日もまた飲んだくれていることであります。
森 英雄
自分をごまかす世間の道は 不安で空しい
心を豊かにするお念仏の道は 自由で明るい
これは福岡県の大牟田市在住の村上不退様よりいただいた法語です。
世間の道は「我、良かれ」という心より起こり、自分に値打ちをつけていく道であり、他人を裁いていく道でもあります。他人との差を立てて自らを確認していく道ですから、当然知らないこと・出来ないこと・負けることは、死ぬことと等しい恥ということとなります。ですからいつも緊張し、他人を馬鹿にした分、他人からも馬鹿にされないようにと、ガードを固めて心を氷のようにしていく道です。もちろん負けられませんので、知らないことも知ったかぶりをし、出来ないことには言い訳をし、負けるが勝ちと理屈をいう心で生きているので、不安で空しい心を抱えて生きることともなります。
それに対してお念仏申す道は、私の本性は善いところなど一つもない、怖い心で生きていることを知らせてくださって、自分のありのままの姿をそのままに受け取らさせていただく道でもあります。
その本当の姿を知らせんがために、仏さまは嫌な人、苦手な人となって、十重二十重に取り囲んではご苦労なさっておられます。
また、今まで見たくないと思っていた心、嫌がっていた心、善い人間と思われなくては見捨てられてしまうのではないか、と思っていた不安な心がお念仏の心に出会って溶かされる道でもあります。
本当にとんでもない心が縁を待って起こってくださり、私にまでなってご苦労くださっている法蔵菩薩さまの御声が聞こえてくる道でもあります。私も死ぬまでなくならないこの煩悩を消化してくださるお念仏の道を、皆さんに導かれながら、ひと筋に歩ませていただこうと思います。
出口幸子
病気がもとで肺気腫があった父が肺炎で倒れ、医師から「もうだめです」と言われたのがうそのように二年半が過ぎました。肺気腫を患っていても、周囲の人は全く気がつかないほど元気でしたし、同年代の人と比べて体力も気力もありました。でも、実際にベッドに横たわった父を目の前にすると、別れがせまっていることを感じざるを得ませんでした。」医師は、「機関紙を切開して人工呼吸器をつけたほうが楽になるから、そうしたらどうですか」と勧めました。母は少し迷って、父がどうしたいかを聞いてから決める、と言いました。そして、「呼吸器をつけたら呼吸は楽になるけれど、話はできなくなるそうだよ。どうして欲しい」と聞きました。父は少し天井を見つめていましたが、一言「いらん、このままでええわ」と、母の目を見て答えました。本人がしっかりとした意志を持って答えたのを見て、本人の意志と家族の思いが同じであったことに、なぜか妙に安心感を覚え、私の心の中にも、「そうだ、これが人の生き方だったのだ」と、納得するような何かがあることに気づきました。
思えば、父の年代は戦争をくぐりぬけた年代でもありました。死を否定しながら生を模索し続けた一生の中で、二度も結核にかかり、健康な体、という世間一般の幸せの条件の一つを失いました。「自分と他の人の為に生きられるようになったら人間になるんだ」「いろんな人のおかげでこの世におらしてもらえる。生命のあるうちは、この世での仕事がまだ残っている」と、よく口にしていましたが、かといって、気負っているわけでもなく、ひょうひょうと生きているという表現がぴったりの生き方でした。死に何度か直面せざるを得なかったことが、父の人生にとって、自らの生きる姿勢を問うことになったと思われます。
『大無量寿経』の四十八願の中の第15番目、
たとい我、仏を得んに、国の中の人天、寿命能(よ)く限量(げんりょう)なけん。その本願、修短(しゅたん)自在ならんをば除く。もし 爾(しか)らずんば、正覚取らじ。(真宗聖典17頁)
この言葉は、生きることが生物学的にできるだけ長く生命を維持することができる、ということだけでなく、人間として、本当に生きることを見つめて生きているかどうかを問いかけてくれているように思います。
そして、父の生き方は、私の生き方も問い続けていくでしょう。
松澤建夫
南無阿弥陀仏
昨年4月、私の妹、素子から電話がありました。嫁ぎ先の母が亡くなって、四十九日の法要が終わった後だと記憶をしています。
義理の母は、高齢で入院生活が6ヵ月に及びました。亡くなるまでの2ヵ月は、嫁の務めとして付き添い看病をしたそうです。
「お母さん、誰だか分かりますか」
「素ちゃんだね、ありがとう」
亡くなる当日も同じ会話の後、眠るように逝かれたそうです。「あれも、これも、してあげればよかった」という悔やみの反面、実は「ホッとしている自分」に気づかされたと言います。
月命日の墓参りで、「ホッとしている嫁、恐ろしい根性をもった嫁」をお詫びしていたら、「素ちゃん、ありがとう」という最後の言葉が甦ったそうです。その時に、ふと「私を生んでくれた母に対して、私は何をしてあげたのか」という「問い」が込み上げてきて、義理の母に合掌をしながら、他界した実の母に、憶いを馳せたと言います。
「お兄ちゃん、私は義理の母に対して尽くしました。でもね、実の母には何もしてあげられなかったのよ。義理の母の墓前で、実の母にお詫びをしてきたのよ」
と、素子の涙声が受話器から流れてきました。生んでくれた母を憶念していたのでしょう。
「素子、良かったね、義理の母が実の母に逢わせてくださったんだね。お礼を申したかな。松澤家はお寺とのご縁が深かった。父母の葬儀、癌で逝った妻の葬儀の時も、兄弟姉妹七人が『仏教讃歌』で送っただろう、きっと、仏さまが素子を憶念してくださっているんだよ」
と、私の念いを伝えました。
広島在住の大石法夫先生が説いてくださった「姥捨山に捨てられる母が、背負って捨てに行く我が子を憶念する、姥捨山のお譬え」が私の胸に甦り、正信偈「憶念弥陀仏本願」をいただきました。
南無阿弥陀仏
佐々木達宣
1学期ももうすぐ終わろうとしていた頃、中1になる娘のいる部屋から、朗読の声が聞こえてきました。それは、1年生の国語の教科書に載っていた『碑』という題名の文章で、広島テレビの制作によるドキュメンタリーのシナリオでした。
昭和20年8月6日、朝、広島二中の1年生322人と4人の引率の先生は、建物疎開の作業のため、市内中島新町の本川土手に集合していました。そして、午前8時15分、原子爆弾が投下され、全員が亡くなったのです。そして、その半数近くは遺体を見つけることもできませんでした。その朗読が終わった後、それを聞いていた私も家内も、そして、読んでいた娘もしばらく口を開くことができませんでした。
今年も8月6日、広島において平和記念式典が行われましたが、今年は先のイラク戦争や北朝鮮の核開発問題など、不安定な世界情勢を通して、我々に平和というものの概念を、改めて問うた年でなかったかと思われます。それは、私たちが抱く平和に対する概念が、いかにあやふやなものであったかを露呈した形となったのです。私たちが求める平和とは、本来は恒久的なものであり、崇高な目的でなければならなかったはずが、いつの間にか、我々人類は一時的な、そして、政略的な平和を求めるようになったのです。つまり平和とは、単に戦争をしていない状態に過ぎず、力の均衡という、その危ういバランスが崩れた時は、再び戦時に戻ることを我々にまざまざと見せつけました。そして、戦争の常として、弱者が犠牲になるという現実も繰り返されたのです。
『仏説無量寿経』の中に、「兵戈無用(ひょうがむよう)」という言葉が出てまいります。仏教の広まっていくところには、軍隊も兵器も必要でないということですが、現実社会に重ねて考えた場合、先に述べた、政略や力を背景とした、その場しのぎ的な平和維持とは、ずいぶん次元の違う意味合いとなっていきます。しかし、争いの原因は人間の心の問題にあるのです。お互いの宗教や国家、人種を尊重し尊敬することができたなら、争いは起こるでしょうか。しかし、認めることができない、許すことができない私たちなのです。こういう私たちの在り方こそが「兵戈」なのです。そして、その自覚を促す願いが南無阿弥陀仏なのです。
広島の平和記念式典も今年で58回を数えました。その間、繰り返された人々の願いも、現状を見る限りまだまだ世界には届いていないようです。改めて、何をもって平和とするかを考えることが必要ではないでしょうか。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。