木村大乘
2002年6月6日は、近代(明治)の親鸞とも言われました清沢満之先生の百回忌の年にあたります。この清沢先生の語録のなかで私自身いつも問いかけられている言葉がございます。それは、
財貨を頼めば、財貨の為に苦しめらる。
人物を頼めば、人物の為に苦しめらる。
我身を頼めば、我身の為に苦しめらる。
神仏を頼めば、神仏の為に苦しめらる。
その故何ぞや。他なし、「たのむ」心が有相の執心なればなり。
これを自力の依頼心と云う。
さて、ここに私たちの人生における一切の苦しみや、悩みが起こってくる根本の原因、つまり「苦悩の本(もと)」を自覚として明らかにされた言葉こそ、「その故何ぞや。他なし」の一言をもって示されているのであります。それはちょうど、お釈迦さまがお悟りを開かれた時に、「三界という迷いの世界を造っている(造り主たる)大工を見つけた」と言われたその自覚に匹敵するものであるといえましょう。それが「我執(がしゅう)」という妄念妄想なのであります。
私たちはすでに絶対なる如来のいのちの世界に身をいただいていながら、その一切を「我執」によって私物化し、欲望の世界として迷っている「自力の心」を知らないのであります。しかしまた逆にいえば、悩みや、苦しみ、空しさ、不安の心をご縁として「自力の妄執」に気づかされるお陰で、他力の掌中(しょうちゅう)に生かされて生きている自身を新たに発見して行く道が限りなく開かれてくるのであります。