013儂(わし)が

片岡 健

自分のことは自分が一番よく知っている、と私たちは思っています。本当にそうなのでしょうか。

私も年に何回かは、家内が用事で外出した時に、台所の食器を洗うことがあります。そうしてお昼近くになって家内が帰ってくると、私は「儂が茶碗洗(あ)ろといたったでな」と言います。そうすると家内は「へー珍しいこともあるね。雨でも降らなええがな」と言います。何ということを言うのでしょう。本当なら「すみません。ありがとう」と言うべきところでしょう。しかしこれは、家内が非常識な人間だからではないのです。「儂が洗ろといたったでの」「儂が」ということに問題があるのです。私たちは気づかずに「私が」とか「俺が」とか言っていますが、そこに問題があることを知りません。私たちは必ず四つの煩悩とともに生きています。それは、我愛・我慢・我見・我痴です。

我愛とは、どこまでも私がかわいいということです。我慢は「我慢する」ということではなく自慢することです。我見と言うのは我執のことです。我というものを勝手に思い画いて、そういう我が本当にあるのだと思い極めているのを我執・我見といいます。我痴というのは、そういうことが分からないということ。自分のことが分かっていないことをいいます。自分が思っている自分など本当はありはしないのに、勝手にそれを自分だと思い極めて、そして自分をどこまでも立てているのが私というものなのでしょう。その私が「儂が洗ろといたったでな」というのですから、家内もそれに気がつくわけです。「儂が」と言わないで「茶碗洗ろといたでな」と言えば家内はきっと「ありがとう。ごめんね」と言うはずです。でも「儂が」という言葉は文法上の主語ですから、使わないわけにはいきません。我執を離れた「儂」つまり「我」を回復したいものです。