014ペルソナ(役割)を演じることに疲れる意味とは

川瀬 智

春、妻と長男の三人、長島の日帰り温泉「湯あみの島」へ出かけました。広い敷地での大きな岩々や木々がかもし出す空間は、私を3月の多忙な法務の疲れから開放する場となりました。

露天風呂で身体を休めた我々は、3階の「大広間」で昼食を取ることになり、なり、妻の「運転は私がするからアルコールを飲んでリラックスしたら」といううれしい言葉に、しめしめとビールを持ってさあ飲もうとジョッキを口に近づけた時、後方から「ご縁さん、今日はなんやね」「どうしたんやね」と予期せぬ声がかかり、ジョッキを持つ手が凍るとともに、温泉にて癒されリラックスした心が凍りつきました。

こんな処で「ご縁さん、今日はなんやね」「どうしたんやね」は無いだろう、「どこにいても疲れるな、介抱されないな」と感じた時「ペルソナ」という文字が浮かびました。「ペルソナ」とはラテン語で、古代ギリシャ・ローマ時代、演劇で役者がつける「仮面」を意味し、素顔や心の内面を人目にさらさず、自我が守られることにはたらきがあります。

人は生活場面に応じ複数のペルソナ(仮面)を持ち、その役割を果たすという側面も持ちます。その役割が、自分を解放するはたらきになるか、その側面にあった役割を演じることに疲れ果てるか大きな岐路があります。

仏教で、覚りを「解脱涅槃」といい、煩悩の炎が消え自我から開放されることを意味します。そういう仏教の教えを共々に聞き開いていく僧侶である私が、僧侶としての日々の生活が役割を演じる為に疲れるというのなら何処に仏教の救いがあるのでしょうか。

疲れるという文字は「疒だれ」に「皮」という文字です。【皮】は《解字》(下記参照)《頭のついた動物のかわ+又(手)」で動物の毛皮を手で身体にかぶせるさま》です。そこには、獲物を獲て誇らしげに持っている「名聞・利養・勝他」の我が姿が見えます。しかしその生活が疲れるのです。

その生活が「疒だれ」であり、「名聞・利養・勝他」という煩悩の欲する獲物を獲ることこそが自己の幸せと追いかけ続けることに、身は疲れ、心悩ませるはたらきが私のところに来ています。その疲れこそが、今こそ、本来からの呼びかけ願いである「阿弥陀仏」の本願に、限りなく帰れ、と仮面をかぶり演じることに疲れるわが身を通し、教えていただいているのです。