松下至道
以前知り合いから聞いた話ですが、ある方が仕事や人間関係に疲れ果て自殺を考えていたそうです。
ある日その方は、「いつ・どこで死のうか」ボッーと考えながら車を運転していると、事故を起こしかけたのですが、直前に我に帰り急ブレーキとハンドル操作で大事には至りませんでした。もし、そのままであったら、いのちを落としかねない事故になっていたと思われる程危うかったそうです。
そしてその方は、その時にふと「危なかった」と言ったそうです。そして気持ちが落ち着くとともに、自分のとった行動と言葉に対して驚きというか不思議な感じがしたそうです。「自分は死にたかったのではないのか?それなのに何故だろう?」その方は自殺することを止めました。
私たちはいのちを自分のものだと思い込んでいます。「自分のいのちをどうしようと自分の勝手ではないか」と。しかし、本当にそうなのでしょうか。自分の思いは「死にたい」としても、いのちは生きようとしています。しかも、自分で作ったいのちなどありません。気がついた時にはすでに与えられていたのです。私たちは自分で生きていると思っていますが、生きている以前にそのいのちに生かされているのではないでしょうか。
いのちの流れは、親から子へ、そして孫へというふうにつながっていきます。いのちからいのちへと大きな流れとなってずっとつながっていくのです。私たちの思いを越えて。
南無阿弥陀仏の「阿弥陀」には、「限りないいのち」という意味があります。私たちのいのちは、大きないのちの流れから生み出され、そしてまたその流れに帰っていくのです。私たちの口から出るお念仏は、そのいのちが言葉となって出てきてくれるものではないでしょうか。お念仏を聞くということ、そしてお念仏を言うということは、いのちの言葉を聞き、そのいのちを精一杯生きるということだと思います。