伊藤静子
年が明けて、世界遺産やお花、そして日本の四季の風景など、いろいろ新しいカレンダーが部屋を明るくしてくれています。
私の居間にあるカレンダーは「目をあけて眠っている人、私もその一人でした」という言葉から始まっております。「目をあけて眠っている人」という短い言葉ではありますが、この言葉に出合った時、なぜか私のすべてが言い当てられているような気持ちになりました。
私は寺の坊守ですから、毎日毎朝、お仏飯をお供えしたり、ご本尊に手を合わせたり、少しでも格好の良い仏華を生けたりすることが日課となっております。でもいつの間にか、それは私にとっては当然のことであり、当たり前のことになっていて、尊い仏法に出会っているという気持ちは生まれてこないのです。お仏飯をお供えすることはできましても、お供えせずにはおれないような自分にはなかなかなれそうにありません。
私が生きていくのに、本当に大切なことは何か、毎日毎日、本堂やお内仏の荘厳に出合いながら、それらの形を生み出している尊い教えや、お心に出合うことができず、ただ何となく一日一日が過ぎていく自分の生活全体が、言い当てられている言葉であったと気づかせていただきました。
今年もまた聞法者の一年生に帰って歩ませていただこうと思っています。