028明晰な眼(まなこ)

飯田隆弘

オウム真理教の事件以来、宗教に関わることは怖いことだという風潮となりました。何故そのようことになったのでしょうか。

「信ずる者は救われる」というどこかで聞いたフレーズによって、一つのイメージが作られ信仰の奴隷となり、あの悲惨な事件が引き起こされたのではないかと思います。

仏教は自覚の宗教であると言われます。一体、何を自覚するのでしょうか。親鸞聖人のお言葉に「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと…」(真宗聖典545頁)とありますが、これは、親鸞聖人の「賢」に対する「愚」という自覚であり、教えにより照らし出された偽らざる人間の本質でありましょう。

また、亀井勝一郎氏の本をめくっていて目にとどまった文章に「信ずることによって、救われたというが、そんなことがありうるだろうか。信仰が自己に対する明晰な眼をもたらすものならば、救われる身であるよりも、いかに救われがたい身であるかが、まず自覚されるはずだ」という一文があります。亀井氏の言われる明晰な眼とは、まさに、親鸞聖人の「愚」の自覚の世界を指しているのではないでしょうか。

同じ人間としての親鸞聖人のお言葉に、ホッとして同時にゾッとするのは私だけではないと思います。

生きることが条理的でなく不条理で、合理的でなく不合理でしかない、思い通りにならない現実に出合う中で、他でもない明晰な眼で自己を問う、そこから親鸞聖人の教えに出遇う歩みが始まるのではないでしょうか。

027お仏供(ぶく)さん

三枝明史

みなさんは毎日お内仏に仏飯をお供えされていますか?

ご存知のように、お仏飯は正しくはお仏供といいます。このお仏供さんの扱いについて、よく次のようなお尋ねを受けます。

「お仏供さんはお供えしなければいけないものなのですか?」

「お寺さんが来られる日にだけ供えることにしてはいけませんか?」

「お供えする数を減らしてはいけませんか?」

「なぜですか?」とこちらが逆に問いかけますと、決まって「わが家では毎日ご飯を炊きませんから」とお答えになります。あるいは、もっと正直に「冷えて硬くなったご飯は誰も食べない」とか「とても毎日続けられない」と言われる方もいらっしゃいます。

「それぞれの家庭の事情の中で、お仏供さんあり方を考えていただければ結構なのです」とお答えしながらも、いつも何か割り切れないものを感じています。

それは質問をされる方のお内仏に対する向かい方(姿勢)です。言葉の中に「仏さんやご先祖には申し訳ないけれど…」というような一言が含まれていないのです。つまり、言外で一貫して主張されていることは自分たちの都合なのでしょう。

本来、ご本尊(尊い存在)として、どこまでも仰いでいくべき仏様が、人間と対等に、いや人間よりも低い位置に置かれてはいませんか。人間の側の頭の高さ、視線の高さが感じられて仕方がないのです。

「お給仕」という言葉が示しているように、お内仏は私たち人間がお仕えすべきものです。日々お仕えすることを通して、仏の教えを身近に学び、「生かされている」自分を確認していくべきものでしょう。

みなさんにお尋ねいたします。

「お給仕」がいつの間にか「お世話」になってしまっていませんか?

「お供えすること」が「与えること」に変わってはいませんか?

026彼岸を願う

水野朋人

この二十日から彼岸の入りです。「彼岸」とは此の岸から彼の岸にわたる、迷いの世界より覚りの世界にわたるということです。

お盆が過ぎてお彼岸を迎えますが、そのお盆にテレビを見ておりましたら、毎年の光景ですが都心より生まれ故郷に帰る帰省の状況を放映していました。

お盆の仕事休みに車の渋滞に巻き込まれ、電車の混雑の中、手土産と荷物を持ち、疲れをなお重ねることが分かっていても毎年帰省される。そこまでして生まれ故郷に帰らなければならないかとすら思える。

毎年かえって疲れることは分かりながらも、なお生まれ故郷に足を運ぶのは何故でしょうか。帰りたいと思わしめるものは何でしょうか。単に時間的なゆとりに因るものではないでしょう。

おそらく生まれ故郷の「懐かしさ」「賑やかさ」を求めて生まれ故郷に帰られるのではないでしょうか。それはこの現実世界の日々の生活がいかに空しく、孤独であるかを物語るものであり、その現実の生活から安心感をたとえ束の間でも獲たいとの願いが故郷に足を運ばせるのではないでしょうか。如何に私たちが安心して生活できる世界を求め、願っているかを現すものではないでしょうか。

仏教ではこの安心して生活できる世界を彼岸といい、空しく孤独の世界を此岸と言われるのでしょう。

帰去来(いざいなん)、他郷(たきょう)には停(とど)まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。‥‥釈迦仏の開悟(かいご)に因らずは、弥陀の名願いずれの時にか聞かん。(真宗聖典355頁『法事讃』)

と善導大師は言われます。彼岸の世界は現実の世界を離れて何処かにある世界ではなく、むしろ日々の生活の空しさ、孤独から開放してくれる世界ではないでしょうか。先延ばしすることなく、空しさ、孤独の世界から開放される世界を浄土真宗の教えにより確かめつつ歩むべき彼岸の入りの時節です。

025夏の出会い

海老原章

長かった夏休みが終わり、まだまだ残暑の厳しさを体感する中にも、お彼岸も間近となり、秋の虫の鳴き声が気持ちだけでも涼しさを運んでくれるようになりました。

暑い夏の季節には、強烈な太陽の光のもとで、昆虫や植物など、夏の生きものたちが躍動しています。秋には、立派な実をつけようとしている果樹や、堂々とした風格、そして生命感に溢れて咲くひまわりの花などは、私自身に積極的な生き方を示してくれて頼もしくさえ感じられます。

また、蝉も夏の生きものとして欠かせないものですが、蝉は、ご承知のように、長い間土の中で過ごし、そして成虫になってからわずか数日間で死んでしまいます。

夏には、やかましい程に懸命に鳴く蝉の鳴き声が暑さを増すようにも思いますが、鳴き尽くしながら一生を終える蝉の生き方は、いかにもはかないものがあります。このような蝉の一生は、周知の事実ですが、こういった生きものの在り方が、改めていのちというものを考える指針になるのではないでしょうか。

いくら短くとも生きものが精一杯生きる姿を目の当たりにした時、いつまでも生きることができるかのように思い、その日その日を無駄に生きてはいないかと、私に問われているような気がします。蓮如上人は、「仏法には、明日と申すこと、あるまじく候う。仏法のことは、いそげ、いそげ」(真宗聖典874頁)と万事に油断し、生活している私たちを戒められます。梅雨になれば「うっとうしい日が続く」と言い、夏になれば「暑い、暑い」と愚痴をこぼす。人それぞれに季節を受け取る思いは異なりますが、夏はエネルギッシュにいのちが燃える時期でもあります。こういった中で、大事なことを忘れて日々を過ごし、「明日も明後日もある」と油断し、惰性のように繰り返している私自身の生き様に、夏の主役たちが一つの生きる方向を教えてくれたような気がします。

024自心に迷う

芳岡恵基

最近、私の村の周囲にはたくさんの新興住宅が建ち、今まで一度もお会いしたことがない人が、よく寺へお越しになります。そのほとんどが、「お守りを処分してください」とか、「写真に霊が写ったので、始末してください」という用件です。現代を象徴している問題ではないでしょうか。

今日の私たちの生活は外からのたくさんの情報に左右され、流されているように思われてなりません。人間の迷いは外からの働きかけによって、自分の内に眠っていた心が呼び起こされ、迷いの生活が生じ、ますます外に向かって自分の幸せを求めずにはおれなくなっているのではないでしょうか。これらのことについて親鸞聖人は「人間の迷いは、自分の心に自分自身の生活のあり方が惑わされているのであります」と言われております。

私自身もこの問題を通して、自分自身の心の内を気づかせてもらう尊いご縁でありました。

023仏華を立てる

泉知子

今年の夏も厳しい暑さが続いています。植木鉢の花もちょっと水やりを忘れると干上がって枯らしてしまうこともありますし、家の中に生けてある花も永くはもちません。お寺の本堂の仏華は大きな枝も要りますし、何杯か生けなくてはならないので、横着者の私には、全く厄介な季節です。

みなさんのお宅ではどなたが仏さまにお花を供えておられますか。私は夫が住職を引き継いだ頃より、それまで義母が生けていたのを見よう見まねで立てることになりました。山へ行ったり、近所の生け垣の伸びた枝を切らせてもらったりして、一日にかかってやっと立て替えるので、お寺の行事の前などは、仏華が立つとその法要の半分は済んだような気にさえなります。仏前に華を立てるのは浄土の荘厳、仏さまの国を美しく表現するということだそうですが、しかしその華も「そこそこ私もできるじゃないの」という自分自身への評価の手段に早替りすることもあります。

今年の夏に三回忌を迎える夫の父がまだ入院していた頃のことです。報恩講の翌日、松の真の切り方で、ある人からずいぶん叱られたことがあります。高い所に手が届かないので真っ直ぐな木を根元からバッサリ切っていたところを通りがかりに見ておられたようです。入院の付き添いで義母も留守、住職はサラリーマンを兼職ですので、何でも一人で準備をしたかのようにいい気になり、それに真っ直ぐな松で結構それらしい華が立ったと思っていた時でしたので、それですっかりへこんでしまいました。

お花の先生は「上手下手にかかわらず、生けた花には、その人の人柄や価値観、生活や生き方が自ずと表れるもの」とおっしゃいます。「さあどうだ、私が立てました」とばかりに仁王立ちする華と一緒に、また今年のお盆や義夫の法要を迎えたように思います。仏華は私を写す鏡のようです。

022衆生の志願

池田徹

『大無量寿経』には、衆生の志願-いのちあるものの深い本心-がいいあてられ、述べられています。本当にしたいこと(本心)がわからないまま、現実の中を被害者的にやらされているという意識(不満・不安・孤独・対立・抗争)を抱えながら生きているのが我々ではないでしょうか。そういう我々に向かって『大無量寿経』は呼びかけられています。それは一言でいえば、「浄土に生まれなさい」という呼びかけです。どんな人も、いのちあるものすべてが、浄土を求めずにはいられないということが衆生の志願であり、深い本心であると教えられています。

その浄土とは、地獄、餓鬼、畜生のない世界であります。地獄とは、通じあわないこと。共に生きていながら、そのものと心がかよわないということで、大きくいえば、民族同士の争い、人と人とが傷つけ殺しあう戦争という状況をいうのでしょう。

餓鬼とは、欲望の無限追求で、その結果、限りなく他者を利用し、道具化して孤独な生を生きているということです。結局今の自分を愛することができないということで、それは同時に縁あって生きている他者も愛せないという状態です。

畜生とは、自立できないということ。いつも何かに依存する生き方で、長いものにはまかれながら、自分の人生を他人事のように生きている在り方です。

この地獄、餓鬼、畜生-三悪趣-という生き方の悲惨さ、空しさ、無内容さを知る時「だからこそ」と、そうでない生き方を求めずにはいられないのです。私の生き方が、地獄、餓鬼、畜生という生き方であるということを深く知らされることと、浄土を求める、願う心とは同時であり同深であります。浄土を求める心は、私の三悪趣の生き方を教えられる中で発起する新しい意欲、それこそが衆生の志願であり、深い本心であるわけです。

この危機的な時代の中で、一人一人が、衆生の志願に目醒め、その深い本心に順って生きはじめる勇気と決断が待たれていることです。具体的には、「関係」を生き続けていくこと、「衆生」に回帰しつづけていくこと、他者に限りなくまなざしを向け続けていくことだと思います。

「あまねく諸の衆生と共に安楽国に往生せん」という諸仏のすすめ、歴史にささえられながら。

021同朋会運動

三和清光

今年は同朋会運動が提唱されて40年になることであります。

40年前、1962年といいますと、戦後の混乱期より17年が経ち、日本国内も落ち着きかけた頃でありますが、そのような中私たち大谷派より湧き上がった純粋なる信仰運動が同朋会運動であります。

その後、種々なる問題が惹起し「門徒一人もなし」とする私たちの体質そのものが問われてきました。しかし、私たちはこのような問題を本当に自己を問う縁としてきたのでしょうか。むしろ、問題収拾と対応のみに終始することになってしまっていたのではないでしょうか。

同朋会運動ですから、信心回復運動であり、僧伽の形成を願いとした運動であります。しかし、時として同朋・会・運動となり、組織や連携が重視され、政治的な運動になってしまいます。勿論それらも大事なことではありますが、あくまでも同朋会運動とは、一人ひとりの自己を問うていく聞法の縁になっていくということであります。同朋会運動の具体的な実践として「推進員の養成(帰敬式の受式)」「本廟奉仕」「特別伝道」が三本柱として掲げられました。これらが全ての運動目標ではありませんが、同朋会運動という言葉を使うことにより、自己満足し、いかにも運動として働いた形に酔いしれていたのではないかと自問自答しておることであります。

真宗人であるならば、今一度自己の点検が必要ではないでしょうか。そして全人類が救われていく宗教として、本来願われてきた信心回復運動が、今日只今希われてくるのであります。

020禿げててよかった

佐々木達宜

先日、車の中でラジオを聞いておりますと、ある養護学校の校長先生のお話を紹介しておりました。少し前のことですので、学校や先生のお名前を失念してしまい、話も若干はずれておるかもしれませんが、要約するとこういうお話でした。

校長先生というのは、たいがい校長室にデンと構えておられることが多い訳なんですが、それじゃ生徒との距離が縮まらない。そこでその先生は校長室を生徒たちに開放したんですね。最初は様子を窺っておった子供たちも、慣れてくると自由に校長室に出入りするようになり、やがては先生の頭を撫でまわしたり、ペタペタと叩いたりし始める。というのもその校長先生、頭が見事に禿げておられたそうなんです。そこで先生が一言、こうおっしゃったそうです。

「あゝ、禿げててよかった」

実は私も、てっぺんの方がだいぶ危うい状態になっておるんですが、コンプレックスを感じることはあっても、よかったと思ったことなど一度もない。主人公が自分である限り、こういった発想はできないんですね。

ここでは主人公は子どもたちであり、校長先生はその子どもたちから智慧を授かっているのでしょう。

仏教ではこうした意識の転換がとても大切なのです。そして仏法をいただくことによって、私たちの日常における自己中心の価値観や生活が大きく逆転されていくのです。

みなさんは朝に夕に、お仏壇の前で手を合わせておられることと思います。ここでは、もちろん主人公は阿弥陀様であるわけですが、私たちの自己中心の価値観から、阿弥陀様を中心とした新しい世界観に逆転されていく場がお仏壇なのです。私の前に阿弥陀様があるのではなく、阿弥陀様の御前に私が座っているとの、意識の転換が促されておるのです。それはもっと言うならば、我々が仏様を供養するのではなく、我々が仏様に供養されておるのだ、ということでもあるのです。

お盆が近づいてまいりました。報恩の心でお仏壇に向かいたいものです。供養される私として、精一杯報恩の心でお仏壇に向かわせていただきたいと思います。

019生きるしるし

藤井信

私のところの寺が修復工事を行っていた、ある日のことです。工事に携わってみえた、まだ若い方が休みの日に突然訪ねてきました。ちょっと話があるというので家にあがってもらったのですが、こんな話なのです。「実は、数日前からどうも身体の調子が悪いのですが、でもまぁ大丈夫だろうと思って仕事を続けていたんです。そしたら見てください。この顔」見ると、その人の顔の半分が麻痺しているようでした。「こんな風に突然、顔の半分が麻痺したんです」他の人から「おまえ、何か罰が当たるようなことしたんやないか」と言われました。「何か身に覚えがあるんですか」と私が言いましたら、その方は「何もした覚えはありません。でも知らず知らずのうちに何か罰があたるようなことをしたのかもしれません」と言います。「悪いと思ってもしてしまうことがあるのに、あなたが言うように、知らず知らずのうちにする悪いことなんて私たちはどれだけやっているか分かったもんではありませんよ。それに、その一つ一つに罰が当たっていたのでは私たちは生きていくことさえできないかも知れません」

これまで何人か同じような症状の人から菌が入ったりしたことが原因だったと聞いたりしていたので、そんな話をしたり、不安に思う気持ちについていろいろ話したことでした。私たちが普段、自分の行為に無関心ですが、何か自分に都合の悪いことが起きると、途端にとても気にしだし、それだけでなく原因を自分以外の他に求めるようです。そしてその不安を解消するためにあるのが宗教だと勘違いしているのではないでしょうか。しかしそのような心など、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」かのように、事態が好転すればすぐに忘れ去ってしまう都合のいい、その場しのぎの心なのです。私たちは、大なり小なり、何かに不安を抱きながら毎日を過ごしていると言えるかもしれません。しかし不安に思う気持ち、それこそが生きる上で重要な意味をもつのではないでしょうか。金子大栄氏の言葉に「生きるしるしの発見、それが宗教というものではないか」とあります。不安に思う気持ちを通して、生きるしるしを発見することこそが大事なことなのではないでしょうか。