020心のシミ

大賀ゆかり

今年の2月に、詩人の谷川俊太郎さんの詩が新聞に載っているのが目に留まりました。ご紹介したいと思います。

「シミ」

妬みと怒りで汚れた心を

悲しみが洗ってくれたが

シミは残った

洗っても洗っても

おちないシミ

今度はそのシミに腹を立てる

真っ白な心なんてつまらない

シミのない心なんて信用できない

と思うのは負け惜しみじゃない

できればシミもこみで

キラキラしたいのだ

(万華鏡のように?)

(『朝日新聞』2月2日)

「心のシミ」とはおもしろい表現だと思い、自分の「心のシミ」はと考えてみると、濃いものから薄いものまでいろいろあるように思います。絶対におちないシミ、やっかいなシミ、人には隠しておきたいものばかりです。

誰でもシミの多い心より、真っ白な心の方がよいと思いますし、真っ白い心に近づけるように努力しようと思います。でも、親鸞聖人は、真っ白い心でなくてもよい、こんなシミだらけの煩悩にまみれた私でも、ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけで、阿弥陀仏の救いの光明が凡夫の私を照らし、生かされていると教えてくださっています。

それなのに私は、そのことに気づかず、自分の思いだけにこだわっています。そして、自分の思いを正当化して苦しみ、ストレスをためる日々を過ごし、阿弥陀仏の救いの光の輝きを感じ取れないでいます。それでも、この光が私のところにも届いていることに気づき、「南無阿弥陀仏」と声に出して称える信心によって、この阿弥陀仏の智慧の光明を感じたいと願わずにいられません。

めまぐるしく流れていく日常生活の中で、教えに出遇えなかったり、出遇っているのに気づかなかったり。しかし、身近な生活の中にも、大切なことに気づかされることはあると思います。その気づきは、聞法していく中で生まれてくるのではないでしょうか。改めて、真宗の教えによって生活をすることの大切さを感じます。

紹介しました「シミ」という詩に出会い、はっと気づかされ、思いをめぐらしたことをお話しさせていただきました。