009あんまりじゃ 

岩田信行

坂木恵定先生の『あんまりじゃ』という一文にふれました。

「あんまりじゃ」のその一言。それはこういう状況での一言です。

吹雪のある朝、月参りへの道すがら、向こうから幼稚園に孫を送りに行くおばあさんと行き会って、そのすれ違いざまに、おばあさんが口にした切なげな「一言」それが「あんまりじゃ」「あまりにも酷(ひど)過ぎる・・・」その一言に坂木先生は「ハッ!」とした。見知らぬそのおばあさん。何があって出た言葉か定かでないが、その一言に坂木先生はそのおばあさんのこれまでの生涯を、その一言のうちに聞き取ったというわけです。

「あんまりじゃ」「あまりにも酷過ぎる」その一言のうちに、これまでの人生の在り様が言い切れる。その一言に全人生がある、そういう一言。そして、そのような「行き詰まり」の一言こそが全人生を引受け、全責任を荷う主体を開く契機となることを、すれ違いざまの一瞬、響いた。

自分の「思い」を自分とし、思い通りになることを「幸せ」と思い込み、当てにならんものを当てにして、当てが外れるや「あいつが悪い」「時代が悪い」と周りを責める。思い通りを夢見て空しく終わりつつある人生に嫌気が差しながら、どうかして迷惑かけずにコロッと逝けんものかと、もう一つ夢見て・・・。そこに「あんまりじゃ」と天を仰いで叫ばずにおれんものが噴出すか、否か。

そういう、自分の人生を突き抜ける「一言」が沸いて、生涯かけて問い続ける課題が見つかること。そこに「聞法」の意味と課題があるのでないでしょうか。

「思い」を「自分」として生きる、その「思い」が「あんまりじゃ」の叫びとともに、今日までの人生が「思いの外」だったと破れてさらさらの事実に立ち帰る!そして、次の瞬間、それさえもまた「思い」に取り込んで・・・。生涯、悪戦苦闘と思いきれ、出てくる「問題」と向き合っていける力をいただいていく生活が「あんまりじゃ」から始まる。

坂木恵定先生の『あんまりじゃ』の一文。響きました。