008差別の根っこ 

米澤典之

私たちの家族に赤ちゃんが生まれてきてくれました。

赤ちゃんの透き通った眼を見ていると、自分の眼がいかに濁ったものであるかを知らされます。新生児室に並ぶ赤ちゃんたちの命は千差万別、一つとして同じ存在はありません。誕生の瞬間から赤ちゃんは様々に区別されています。男女の区別から体重や血液型、障害の有無などによる区別です。誕生した命が男の子でも女の子でも、保育器に入っていても、障害があろうとも、その命の尊さに変わりはありません。

しかし、どこまでも自己中心的な濁った眼は、それらの厳粛な区別を見比べ分別を始めるのです。それは「我が子」と「他の子」に分けるところから始まります。そして「男の子で良かった」「五体満足で良かった」と分別するのです。女の子でなかったことを理由にしたり、障害がなかったことを理由にして満足しているのであればそれは差別でしょう。それは意識しようが無意識であろうが優劣をつけていることに変わりはありません。言葉に表現しなくても、それは差別の心です。そこに差別の根っこがあるのでしょう。それなのに「差別なんかしていません」というところに生きていたことに気がついた時に、改めて心の濁りの深さが知らされてくるのです。

「差別」という言葉は元々仏教語の「しゃべつ」からきています。元々は、それぞれが異なった独自の姿で存在している状態を表す言葉であったといいます。そこには上下・優劣はありません。それぞれが独自の姿を保ちつつ、生き生きと存在していることを表しているのです。

しかし、私の心の眼は、そもそも異なっているものを比較し、優劣・善悪をつけて見ることしかできない眼です。ありのままをありのままに見ることのできない濁った眼です。
今、仏の教えを聞くということは、私の濁った眼ではなく、仏さまの透き通った眼をいただいていくということでありましょう。