伊藤英信
今月は報恩講についてのお話をお届けしています。あなたは、念珠をじっと見つめられたことがありますか。珠と珠とが美しく連なっております。ご先祖はもちろんのこと、夫婦や兄弟、そして友人など様々な人々との繋がりがあって、この私のいのちが今あることを教えているように見えては参りませんか。さらによく念珠をご覧ください。私と食物、私と水、私と大気、私と大地、さらには家や家具といった数え切れない程の様々なものとの結びつきもまた、私のいのちを支え、そして生かしてくれているのだということを、念珠が教えてくれているように思えて参ります。広大無辺なご縁の世界につつまれながら、もしかしたら常日頃はその事実を忘れ去ってしまい、私の人生は私だけの力で生きているような錯覚に陥ってはいないでしょうか。
今年は親鸞聖人の743回目のご命日をお迎えすることになります。ご命日をご縁として勤まります報恩講の「恩」という言葉は、すべてのいのちを平等につつみ、生かそうとされる大悲といわれる仏さまのおはたらきに、しっかりと目を見開くことのできた心であり、また人生のよき師匠に対する強い確信でもあります。
聖人はご自身を「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」と、平均寿命が24歳ともいわれた鎌倉時代にあって、90歳を生き尽くされました。年を重ねた揚句に、淋しさ、悲しさ、空しさが増してくる人生もあるでしょう。しかしそれは、老いの問題ではなくて、生き方に問題があることを、親鸞聖人は念仏と共なるご生涯を通して、私たちに身をもって今も教えていてくださるのであります。
木村大乘
蓮如上人のお言葉に、次のような譬えをもっての教えがございます。
それは「信を得ずして、よろこび候わんと、思うこと、たとえば、糸にて物をぬうに、あとをそのままにてぬえば、ぬけ候うように、悦び候わんとも、信をえぬは、いたずらごとなり」(真宗聖典896頁)と言われています。
つまり、針に糸を通して縫い物をする時、一番大切な「糸の結び目」を忘れては、どうなるのでしょうか。どれだけ時間を費やし、たとえ一生かかって縫い物をしても、その全体が空しく徒労に終わってしまうと言っておられるのです。それは、私たちが人間として生まれさせていただき、限りある一生をいただいている根本の意味とは、何であるかを、この譬えをもって教えてくださっているのであります。それを、蓮如上人は、親鸞聖人の九十年のご生涯をかけてのご苦労こそ、この「真実信心」を賜るためにあるのだと、私たち一切衆生に呼びかけてくださっているのです。
さて、親鸞聖人は、この真実信心を、私たち煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫の身にいただく功徳(くどく)を、次にように述べられておられます。「この信心をもって一心と名づく。煩悩成就せる凡夫人(ぼんぶにん)、煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)を得しむ」(真宗聖典464頁)と「これは凡夫、煩悩の泥(でい)の中にありて、仏の正覚の華(はな)を生ずるに喩(たと)うるなり」(真宗聖典465頁)と。つまり、私たちの愛欲と名利の底なしの悪業煩悩の泥田が、深ければ深いほど、それがすべて肥料となって、一つの無駄もなく、真実信心の正覚の華に限りなく転じられていくのであると言われているのであります。この道理の中に我が身を見出してこそ、報恩の歴史にお応えさせていただくのであると言えましょう。
藤井慈等
報恩講は、ご承知のように親鸞聖人の亡くなられたご命日を、御正忌(ごしょうき)、または御正日(ごしょうにち)と呼んで勤められて参りました。したがって、御正忌報恩講、また御正忌さまと呼んでいる地方もあるようです。親鸞聖人のご命日を期して集いをもつことが、真宗門徒の印(しるし)となって今日まで続いているわけです。真に希有な伝統であると思いますが、聖人の生涯に出遇う、当にその日という意味で、御正忌、文字通り明るいという字を使って「御明日(ごめいにち)」とも言われます。
最近、青森の東義方という方の「聞楽(もんぎょう)」という遺稿詩集の中に「報恩講」という題の詩があるのを目にいたしました。ご紹介いたしますと、
報恩講が終わると 冬が始まる
けだものが泣いているような あの風の音
凍りついた 魂(たましい)が溶けて
通い合うのは 法を聞く時だけなのです
という、詩(うた)なのです。
報恩講が終わると、風の音と共に、魂を凍らせるような冬がやって来ると言われます。それは、人として今日を生きる者が、出遇わねばならない愚かさとして、この身に響いて来るように感じます。そして、凍りついた魂が溶けて通い合う世界が開けるのは、法を聞く時と言われますように、聞法一筋に歩んできた人が遇い得た法の讃嘆、喜びが溢れ出ていると思います。
蓮如上人の『御俗姓(ごぞくしょう)』には「報恩謝徳のために、無二(むに)の勤行をいたすところなり」と、報恩講は「無二の勤行」法の讃嘆をもってなされることが押さえられています。また同時に「ただ、人目(ひとめ)・仁義ばかりに、名聞(みょうもん)のこころをもって報謝と号せば、いかなる志をいたすというとも、一念帰命(きみょう)の真実の信心を決定(けつじょう)せざらん人々は、その所詮(しょせん)あるべからず。誠に、水に入りて垢(あか)おちずといえるたぐいなるべきか」(真宗聖典852頁)と、真実(まこと)の信心が定まっていないことへの懺悔(さんげ)が、御正忌に応えることであると示されています。
懺悔なき讃嘆は、ただありがたい世界に陥って、恩寵(おんちょう)になるでしょうし、一方で、讃嘆なき懺悔は、懺悔をも我が力にとりこんで、懺悔せしめた法を見失うことになるのではないでしょうか。二つは本来一つなのです。この切り離すことのできない、讃嘆と懺悔をもって営まれる御仏事が、報恩講であるということを、改めて確かめなければならない時だと思います。
服部拓円
暑さも和らぎ、日に日に寒さを感じる季節となってまいりました。先日、電話ではありましたが、友人と話していまして、お経とは我々にとってどういうものなのか、お勤めや学ぶことによって何かいいところにでも行けるようなものなのかといった話が出てきました。私自身におきましても、以前こういった想像・イメージというものがあったことを思い出しつついろいろと話していたわけですが、非常に大切な問題のように思います。
昔、唐の時代に善導大師という方が、私たちお経を学ぶ者に対し「お経とはこういったものであると思って聞いていただきたい」という言葉を残しておられます。それは「教経はこれをたとうるに、鏡のごとし」と善導大師は、お経の教えとは、鏡のようなものであるとおっしゃっておられます。鏡とは私自身を映し出すものであり、今現在の私自身を教えていただくものがお経であると言われているのではないでしょうか。さらに善導大師は「しばしば読み、しばしば尋ぬれば、智慧開発す」と言われております。私たちの知るところの鏡とは、毎朝その前に立ち「まぁこれくらいならいいだろう」と思いながら、自分の身だしなみをするわけです。しかしながら、私自身そうであるように自分の見たくないところはできるだけ見ないように、それどころか見なかったこととしてはいませんでしょうか。
お経の教えとは私たちのいうところの鏡とは少し異なり、そういった見なかったことにしてしまっている自身の姿までもありありと映し出し、その問題をまじまじと気づかせていただく。それがお経の教えのはたらきであることを善導大師は鏡という表現を通して示されております。
また、私たちは鏡がないことには自らが見えないように、世の中での出来事・身近であることに関して「私には関係ないことだから」「昔とは時代が変わったのだから」と目を背け評論するだけに止まってしまうことが多いのではないでしょうか。そして、テレビで駐車禁止のところに迷惑駐車する人が「みんながやっていることだから」と平然とインタビューに答えているように問題を見なかったことにしてしまうことが、ついついあるのではないでしょうか。自らの問題とするところから訪ねさせていただく。それが何より大切なのではないでしょうか。
本多武彦
少しずつ秋の色合いが深まりつつある中、世間はレジャーシーズン真っ盛りというところのようです。テレビでは、各地の名所、温泉、グルメなどを紹介する番組が流れない日はなく、書店の旅行に関するコーナーには、それらの特集記事が載せられた雑誌やガイドが溢れんばかりに並んでいます。バブルがはじけ、経済的な不安が高まり続ける現在においても、日本人の旅行熱は冷める気配がないようです。これほど我々を突き動かして止まないものは一体何なのでしょうか。もちろんマスコミや企業の商業主義によって、好奇心や購買欲、食欲などを煽り立てられていることは確かでしょう。しかし、それらの表面的な理由の奥に、もっと根本的な欲求があるとは考えられないでしょうか。
『歎異抄』第2章には「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命(しんみょう)をかえりみずして、たずねきたらしめたもう御(おん)こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり」(真宗聖典626頁)との一節があります。日帰りの海外旅行すらできてしまう現在からは、なかなか想像もできませんが、聖人御在世の頃には旅行自体が命がけのことであったようです。それでも、問い聞かずにはおられないという御同朋たちの深い願いは、彼らを遠く関東から京都の聖人の元へと誘ったのでしょう。こうしてみると、同じように十余か国の境を越えるにしても、我々のそれとはずいぶん趣が違うように思われます。しかし、もう少し考えてみると、我々が「旅」してみたくなるのも、日常生活の中で感じられる閉塞寛や虚しさ、その他様々な問題から自分を解放したいということであるならば、かつての御同朋を京都に上らせたものと、その動機において相通ずるものがあるとは言えないでしょうか。
人生はよく旅に譬えられます。秋の夜長、自分を動かさずにはおられないものに思いをいたしてみるのも、またひとつの旅であると言えるかもしれません。
渡辺美和子
今年の夏休みに、大学生の息子がバイトで手に入れたバイクで、北海道一人旅に出かけました。電話もなく心配になったのでこちらからかけてみると、元気な声で楽しく回っている様子が伝わってきました。
しばらくして、新潟のアパートに帰ったと連絡があり話を聞いてみると、帰りの秋田でスリップして転んでしまい病院で手当てして、バイクに乗って帰ってきたとのことで、ビックリしました。
北海道の後バイクで三重に帰ってきました。擦り傷だらけで「大丈夫なの」と声を掛けると「大丈夫」との返事です。内心はもうバイクに乗らないほうがと思う反面、明日から、四国に出かけるという息子が、地図で道を楽しそうに調べているのを見ると言えません。
バイクの後ろには、テント・寝袋などを積んで、キャンプ場などに泊まるそうです。
次の朝早く出かけていくのを見送りました。二日が過ぎ、夜用事ができたので、携帯電話に何度連絡しても出ません。丁度その時、テレビでは神隠しや行方不明の番組をしていて、不安は広まっていきました。翌朝もつながりません。昼過ぎにこれでだめだったら捜索願かもと思っていたら「今、松山にいるよ」と元気な声がしました。昨夜は四万十川の河原のキャンプ場でかからなかったそうです。「よかった」昨日からの心配が息子の一声で消えていきました。
このことを思い返してみると、自分の心が一人相撲をしていたことに気づかされました。自分の中でおこってきた「おもい」に自分が振り回され、息子に電話で文句を言っている自分に出会ったことでした。
西藤克己
6月でしたでしょうか、ぜひ一度行ってみたいと思っていた加古川市の教信寺というお寺を友人と共に訪ねることができました。親鸞聖人が深い尊敬の念と親しみを込めて自らの生活の手本と仰がれた、教信沙弥ゆかりの地です。
教信という方は、親鸞聖人より三百数十年も前の人でありますが、念仏によって往生を遂げたと言われた伝説の人です。河原の粗末な小屋で妻子と共に極貧の暮らしをし、村人に雇われて労働をし、旅人の荷物を運んで日々の糧を得るという生活を30年もの間送っていたとのことです。その間怠りなく「南無阿弥陀仏」と念仏を称え続け、小屋に居ては西の方角に向かって合掌していた往生人で、人々は教信のことを阿弥陀丸と呼んでいたとのことです。
また、自分の遺体は飢えた犬や鳥に与えてくれとの遺言に従って野原に捨てられた亡骸は動物たちが貪り食って頭だけが残ったということです。そのような言い伝えによるものでしょうか、開山堂の教信沙弥の木像は首から上の頭部だけのお姿のものでした。
親鸞聖人は「私は加古の教信沙弥と同類のものである」と常に仰せられていたと伝えられています。承元の法難によって越後の地で妻子と共に過ごした厳しい日々の中で感得された「僧に非ず俗に非ず。このゆへに禿の字をもって姓となす」という革新された念仏者、また「其閉眼せば、賀茂河に入れて魚にあたうべし」という遺言、まさに教信沙弥の生涯と親鸞聖人の生涯が二重写しに見えてきます。
教信沙弥ゆかりのお寺なんだから小さな草庵だろうという私の勝手な思い込みは完全に裏切られました。広大な敷地に阪神大震災後の大修復で綺麗に整備された立派なお寺でした。教信寺の参拝の帰り道、親鸞聖人を尋ねて本願寺を訪れる人たちの描く聖人のイメージとあの大伽藍は人たちの目にどう映るだろうかと、教信と親鸞の願いが、教えがどこで生きているだろうかと、ふとこんな思いに駆られました。
渡辺勝美
テレホン法話の原稿の期日が迫ってきたある日、母がカゼをひいたのか咳をしている、熱もあるので病院へ行くことにしました。幾度となく通いなれた病院への道であるが、半世紀前のことが思い出されてきました。
当時、父が肺結核で自宅療養していて、時々薬をもらいに行く道でもあり、私も小学校6年生の2学期末に発病し、母に付き添われて通った道、あとは一人で徒歩や自転車で、通院していた頃のことが懐かしくよみがえってきました。
生活はたいへんであったであろう母からは、愚痴しかなかったように思います。その母が折に触れ念仏申しておりました。どうにもならないことという諦めの気持ちからかもしれません。そのことが私には、都合の悪いときの念仏だと、思い込んでいたことのように思います。
住職さんのお誘いで、同朋会に出させていただくようになりましたが、お寺などでお念仏を聞くと、なぜか母の称えていた念仏と重なって、不快な気分でした。
そんな折同朋会で、訓覇先生が「念仏(南無阿弥陀仏)申したら、申した南無阿弥陀仏は如来のものだ」と言われました。それは念仏に問題があるのではなく、念仏を不快としている、私が問題なのであると、知らされたのでした。それまでの私は、阿弥陀様とは、お寺の木像であり、絵像であり、名号であると。また、信心とは、それを信じることであると。どうしたら信じることができるのかと思っていたのです。問題なのは念仏ではなく、私なのだと気づかされたことでした。
回向(えこう)の信心は、本願であり、十八願であり、一心であり、他力の信心であり、如来回向の信心であると、傲慢な私に「遠く宿縁を慶べ」(真宗聖典149頁)と先生からのお言葉でした。
南無阿弥陀仏
藤井恵麿
9月に入りましたが、日中は、まだまだ暑い日が続いております。振り返ってみると、今年も早くから全国各地で猛暑が続き、元気なのは蝉の声だけではないのかと思いました。私自身、暑いのは苦手で、人と会う挨拶の中で、何度も「本当に毎日暑いですね、昨年よりも今年の夏のほうが暑いのではないですか?」などと言い、それに続けて「早く涼しくならないか」とも言っておりました。
そのような中で8月末のある日、境内にたくさんの落ち葉が落ちていたので、久しぶりに掃除をしました。するとびっくりするほど大きくなった雑草も所々に生えておりました。それを見て「この猛暑の中でよくここまで大きくなったものだなぁ」と一瞬抜くのを躊躇したのですが、結局はすべての雑草を引き抜きました。
掃除を終え、綺麗になった境内に満足をしている時です。あれほどうるさかった蝉の声がいつの間にか遠くに聞こえるようになり、それに絡むかのようにバッタの鳴き声が近くで聞こえました。そして夜にはコオロギの鳴き声も響いてきます。なんだか急に静寂な秋の気配を感じ、寂しさのようなものが感じられました。
しばらくその感慨に浸っている時にハッとしました。以前はあれほど早く涼しくならないかと言っていたのに、いざ秋の気配が感ぜられると、寂しいと感じ、そこに落ち着くことのできない私は何処に立って生活をしているのか?この件に限らず、総てにわたり、いつも何かしら不満を抱え、一度も今という事実に立ったことがないのではないか。
「ああ無限にして真にあらず、寿夭(じゅよう)にして保ちがたし。呼吸の頃(あいだ)に、すなわちこれ来生(らいしょう)なり。一たび人身(にんじん)を失いつれば、万劫(まんごう)にも復せず。この時悟らずば、仏もし衆生をいかがしたまわん。願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を胎(のこ)すことなかれと」(真宗聖典183~184頁)のお言葉が静かに響いてきます。
藤岡真
8月も終わりを迎えましたが、まだまだ暑い日が続くようです。この時期に生まれた私は、子どもの頃から「お前は生まれる前から親不孝だった」と言われたものです。暑い夏の間中お腹の中にいたからというのがその理由だそうです。「生まれる前から」ということは、生まれてからも、そして当然今も親不孝だという意味なのだろうかと、釈然としない気持ちで誕生日を迎えたものでした。最も、どの日が誕生日であるかということは後になって教えられて、覚えたに過ぎないのであって、気がついた時にはもうすでに生まれていたというのが事実でありましょう。
そして、誕生日と同じように、この先、自分で知ることのできない、将来いつか必ず来る日に命日があります。今日、誕生日を重くして命日を軽くする傾向がありますが、かつての日本には命日を重んじて、誕生日を祝う風習は無かったそうです。それは、人は生まれただけではあまり意味がなく、どう生きたかに重みを置くことからきていると言われています。命日を大切にしたのは、亡き人との別れを通して、私の生き方を問い直す、それが法事に遇うという意味を持つからでありましょう。
また、人と生まれて人になるという言葉があるように、単に人と生まれても、自分自身に羞じること、そして他人に対しても羞じるということが無いならば、本当の意味での人とは言えないとも言われます。父母を縁として、生まれてきたのですから、父母は言うに及ばず、私が生まれ、今ここにあることについては、私が望むと望まないとに関わらず、無数の恩恵にあずかってきたに違いありません。その恩恵を忘れて生きている姿こそ羞じるべきであると、さらに、今に至るまで人になることを忘れて生きてきたことこそ、一番の親不孝だと言われているように思われます。
ですから、自分の誕生日を人となって下さいと願われた日として、今まで受けてきた恩恵に思いをいたすならば、それも意義のあることではないでしょうか。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。