006 生活におしえられる

河村 論

永代経(えいたいきょう)の季節になりました。この時期になりますと、全国各地のお寺でも永代経法要が勤められていることでしょう。さて、永代経法要の意味を考えてみますと、その文字の通り、経が永代にわたって護持されることを願われて勤められる法要だと思います。

では、その教えというものを考えてみますと、私たち真宗の教えに縁を持つ者においては、やはり念仏の教えなのでしょう。そこで改めて念仏ということを考えてみますと、最近の自分において流罪以後の宗祖の生涯ということに意識がいきます。流罪されるということは、宗祖が自ら歩まんとする念仏の仏道が、世間的にも、当時の仏教界においても否定されたことを意味しているのでしょう。そうした中で、先生である法然上人とも別れ、自分の仏道が揺るがされるような出来事であったのではないかと推測します。

私はちょうど二年前まで京都に住んでいました。当時は大学生でしたが、お盆やおとりこし・法要のある時は実家に帰省して手伝いをしていました。卒業して実家に帰り、今は法事などの法務をして、その中でご門徒さんとコミュニケーションを通して少しずつ親戚関係や、それぞれのお家の生活感というものに触れさせていただく機会が増えました。そうすると、それまでは目につかなかった一軒一軒の情景が少しずつ見えてきたように感じます。

さて、宗祖の流罪された話に戻りますと、宗祖も越後においても同じように様々なものを抱えている人の姿を通し、より人間ということを深く見つめられていったように思います。さらに言えば、そこに生活する人々から、様々なものを抱えつつも一日一日を生き抜いている現実を教えられたのではないでしょうか。そして、その人々の現実を通して、生き抜いていく力として念仏というものを感得されたのではないかと思います。そして、そこから宗祖と田舎の人々の間で生活という場を土台として研鑽され、法脈は受け継がれていき、今日の永代経として相続されてきているのではないかと思います。

宗祖は自身の著作の中で田舎の人々に関し、

いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、(中略)やすくこころえさせんとて、

(『一念多念文意』聖典・五四六頁)

と示して、わかりやすく、念仏の教えが伝わるように著した苦労というものが感じられます。私も別院の定例布教を先日初めておこないましたが、人に伝えるということの難しさをとても感じます。その中で言葉を砕いて接していく関係、砕ききるまで消化する苦労というものに、自分自身が尻を叩かれるように、激励されているように思われます。そのようなことを永代経ということを通して改めて感じさせられたことです。

(南勢二組・教楽寺衆徒 二〇一七年三月下旬)

005 「子供時代のあとに」

箕浦暁雄

イシグロ・カズオの小説『わたしを離さないで』のなかに、臓器提供するためだけに生まれてきた子供たちが全寮生活で特別の教育を受けて育てられ、大人になっていく世界が描かれています。寮生活が終わると別の場所で生活をして、やがては臓器提供者の介護に就き、後に自らも提供が始まります。小説のなかでは、だいたい四度の提供で命を終えていくという状況が描かれます。たいへん不条理な世界です。不条理でありながら、寮生活はどこか牧歌的に描かれます。子供たちはなんとなく疑問に思いながらも、その状況に甘んじ、本当はどうなりたいのかはっきりしません。人は不条理な境遇に慣れる。何に対しても慣れてしまう。不安になりながらなんとなく受け入れてしまう。こんな状況が完璧なまでに用意周到に描かれる小説です。

自分がいまどんな位置に立っているのかはっきりしない。将来もはっきりしない。それがいつのまにかゆっくりではあるけれども、自分の位置が徐々にはっきりしていく、だんだん将来がはっきりする。〈子供時代〉とはそういうものだと思います。

仏教徒たちは長い年月の間に仏陀の伝記をたくさんつくりました。仏陀の伝記には青年時代の姿すなわちゴータマ・シッダールタの姿が描かれています。国王であり父親であったシュッドーダナは、息子ゴータマが青年時代特有の悩みを持たないように〈保護〉して育てます。仏伝作者たちは、人の生涯のなかで〈子供時代〉というものが持つ意味をよくわかっていたと思います。一方、作家イシグロ・カズオは、人間というものを鋭く観察して、まるで仏教の課題が定まってくる背景にあるものをよく知っていたと言えるほどに、実に巧みに〈子供時代〉を描き出すことに成功しています。

ゴータマは苦悩する人がいかにして豊かに歩むことができるかを問いました。これが仏教の根本課題です。本当は何をしたいのか明確でない。かといって何も意思がなく、将来像がないわけでもない。何かぼんやりとした不安があり、そんな状況を受け入れながら、その境遇に慣れてしまう。我々の日常のこうした状況がまずあって、そのなかからいかに歩むべきなのかという問いが生まれてくるのです。

うちの子供たちは、仮面ライダー変身ベルトをつけて跳び蹴りし、長い棒をふりまわし、ものをぶん投げて、毎日怒られながら、皆に見守られています。こんな姿を通して、人が歩んでいくことの難しさについて考えています。

(桑名組・專明寺・住職 二〇一七年三月上旬)

004 バーバは何処へ行ったんですか

藤波 淳

中陰参りでの話です。御文を頂いた後で、少し話をさせていただき、門徒さんに「何か聞きたいことありませんか」と話し掛けるのですが、なかなか口を開いてはもらえません。

三・七日なのかの時でした。小学生が手を挙げたので、ハッとしました。何を質問されるのか、戸惑ってしまいました。大人なら大体の見当は付きますが、子供の質問は想像がつきません。ドキドキしながら聞きましたら、その子が「バーバは何処へ行ったんですか? 」と質問され、一瞬止まってしまいました。どう答えたらいいのか、頭の中が混乱して解りません。

私は「私にも良く解りません。でも、私はこう思います。君の中にバーバはずっといると思いますよ、どこへも行っていないと思いますよ。君を今までみたいに応援し続けていますよ」と言ってから、本当にこれで良かったのかなと思いながら、その時、たまたま鞄の中に相田みつをさんの詩集を持っていましたので、『命のバトン』という詩を読ませていただきました。

その子に「この詩を覚えておいて下さいね。私の命は私だけのものではありませんよ。たくさんのご先祖が君を応援し続けてるんですよ。だから命は大切なんです。自分の命を大切にできる人は、他人の命も大切にできますよ。苦しくなったり、悩みごとがあったりした時、一人で抱え込まないで、君を包んでくれてる人に話してください。当然バーバにもですよ。」と申しました。子供さんの一言から、住職の仕事の重さを心から感じ取ったご法事でありました。

(三重組・誓海寺住職 二〇一七年二月下旬)

003 いただきます

平塚明子

私は三年ほど前に大谷派僧侶の方と結婚し、在家からお寺に嫁がせていただいたのですが、お寺に嫁ぐまで、終末期医療の現場で管理栄養士として働いていました。

私が担当させていただいていた無菌病棟の患者さん方は、余命数か月と医師から診断された方がほとんどで、みなさん様々な症状、事情でたいへんな方たちばかりでした。

それにもかかわらず、私が「お食事どうですか?」と伺いにいくと、いつも「ほんとうにありがたい、ありがたい、申し訳ない」とおっしゃり、感謝してくださる一人のお婆ちゃんがいらっしゃいました。

抗癌剤治療のため、ほとんど食べる事ができない状況にもかかわらず、病室で一人「いただきます」と手を合わせられていた事を思い出します。そのお婆ちゃんは、癌との闘いに加えて、私が日々当たり前の如くいただいている食事をすることさえ困難な状況にも関わらず、病院の決して美味しいとは言えない食事に対して「ありがたい」と頭を下げてみえたのです。

そんなお婆ちゃんの姿に対して、毎食「いただきます」と手を合せるどころか、評判のいいお店を探して行くくせに、ダイエットのために、何のためらいもなくご飯を残している私がいました。当時の私に、命をいただくという姿勢はどこにもなく、どこまでも自分のことしか考えていませんでした。

真宗大谷派では、食前の言葉として

み光のもと われ今幸いに

この浄き食をうく いただきます

と唱和します。「われ今幸いに」とは、食事をいただけることは決して当たり前ではなく、数えきれないくらいたくさんの命のおかげでいただくことができると感謝するということだと思います。

また「この浄き食」とは、食べられなければまだ生きられた命が、私の犠牲となっていることをしっかりと自覚していただくという意味ではないかと思います。

現代の日本は飽食の時代です。お腹が減ることはあっても、飢えることはまずありません。本当にありがたいことなのですが、私はこの恵まれた状況に、心からありがたいと思っているかと言うと嘘になってしまいます。私たち人間は柔軟性があり、様々な事に対応して生きていく事ができます。様々な環境、条件に対応できるのですが、逆に言えばどんなにありがたいことであっても、すぐに「あたりまえ」に感じてしまうのが私たちだと思います。

幼いころ、に実家の母に教えてもらった、ご飯の前には「いただきます」、ご飯の後には「ごちそうさまでした」と声に出す本当の意味を、二〇年以上たってから、「いただきます」「ごちそうさま」と、合掌しながら一言つぶやくお婆ちゃんのお姿から教えていただいた気がします。

(三講組・養泉寺衆徒 二〇一七年二月上旬)

002 ご縁

伊藤達雄

「ご縁ですね!」

最近、挨拶のように交わされるこの言葉が耳の奥に留まるようになりました。

戦争終結の二年後に生まれ、十一歳の時、(小学生六年生に)伊勢湾台風という未曾有の自然災害に遭い、五千人余りの尊い命が奪われました。この数の中に、父親も、仲良しだった友達の数も含まれています。その後も、事故・災害・自死など、様々な別れがありました。そのような体験から、「死」は自分の意思に関係なく襲って来ると実感しております。

しかし、全ての事象は「ご縁」の催しにより起きる事だと解っていたように思っていたのですが、六十八歳という年齢から来るものなのか、また、死への恐怖から来るものなのか、人ごとではないと、今更ながらに気付かされております。

人間はなぜ生まれて来たのだろうか。そして、何の為に生きていくのだろうか。そんな疑問に答えられたのが仏陀だと教えて頂きました。

生まれてから社会に出る為の知識・教養を享け、成人し、社会人(つまり人生の修行者)として四十数年働き、停年を迎え残りの人生(終活人生)を十二分に「実りある時間」として過ごしたいと思っております。

そんな思いに応えてくださったのは、そうです! 親鸞聖人との出遇いだったのです。このご縁無くして現在の充実感は得られなかったと思えます。

聖人の深い、深い御教えの一つ一つを理解することはなかなか難しいのですが、響いたお言葉に日々感動しております。

「ご縁のままに」と申しますと「どれだけ努力しても無駄だ」と考えることもできるのですが、蓮如上人の『白骨の御文』には、無常は私達が「後生の一大事」つまり人生の一大事を抱えている身であることに、気付かせてくださる「ご縁」であることを教えられています。

また、曽我量深先生の講義集の中には、

人間の世界は、仏道修行すべき尊い世界である。我等の世界は、生死(しょうじ)無常だから、仏道修行に適している

(『曽我量深講義集六』六十八頁)

とも書かれてありました。

親鸞聖人の「念仏のみぞまこと」の言葉をかみしめ、これからも聞法に励みたく思います。

合掌

(長島組・深行寺門徒 二〇一七年一月下旬)

001 「道徳はいくつになるぞ」

田代賢治

明けましておめでとうございます。

本年も三重教区そして桑名別院本統寺をどうぞよろしくお願い申し上げます。

また、昨年末にはたくさんの方々が報恩講をお荘厳くださいましたこと心から御礼を申し上げます。

さて『蓮如上人御一代記聞書』の冒頭にありますように

勧修寺の道徳、明応二年正月一日に御前へまいりたるに、蓮如上人、おおせられそうろう。「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし (後略)」

(『真宗聖典』八五四頁)

と言われたことはよく知られたエピソードです。

この言葉の主意は、他力の念仏とその御たすけの後の感謝の念仏の一念を、臨終まで保つことの大切さを伝えられたものだと言われています。

「道徳」のところを自分の名前に置きかえて「おまえは、いくつになるぞ」と聞かれると、やはりドキッとするのは私だけでしょうか。虚しくムダな日々を、時間を過ごしているのではないかという、後ろめたさがきっとそうさせるのでしょう。

そのことに気づかされたならば、与えられた時間と日々をどう過ごすのか、それが問われてきます。

「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし」との善知識からのおさとしを、阿弥陀仏からのご催促と受けて、これからの一年を過ごしてまいりたいと思うことであります。

南無阿弥陀仏。

(三重教務所長 二〇一七年一月上旬)

025 あとがき

テレホン法話集「心をひらく」第38集をお届けします。昨年(2016年) 1年間の24人のご法話を収めました。

さて、2020年、東京オリンピツク開催まであと3年となりました。創始者であるクーベルタン男爵は世界の各地で紛争、戦争が絶えないことを憂い、スポーツを通して平和な社会の確立を目指しました。

オリンピツク憲章では、国別のメダルランキング表の作成を禁じています。

勝利をおさめた栄誉は、あくまでも選手たち自身のものなのです。しかしながら、マスコミを通じて報道される日本のメダル数に、一喜一憂する自分がいます。日本人の選手を負かした相手国の選手の勝利を喜べない自分がときとしています。テロなど最近の世界的政情不安の中で、平和を求めるとはどういうことか、オリンピツクを通して今一度、間う機会になればと思います。発刊にあたり関係者諸氏のご苦労に感謝申し上げます。

(社会教化小委員会 幹事 梅田良惠)

024 「不安」は阿弥陀さん

池田 徹

龍樹菩薩は人間の恐れ不安を、七つ挙げています。自己流で言うと、生活ができなくなるのではないか。死んでしまうのではないか。嫌なことが起こるのではないか。人間関係がうまくいかず、居場所を失うのではないか。馬鹿にされ、なめられるのではないか。孤独にさいなまれ、心が落ち込んでいくのでなはいか。なにか、とんでもないことを、しでかしてしまうのでないか、という問題を抱えていると言えます。

しかし、これらの不安、怖れはどこから起こってくるのかというと、龍樹は、「一切の怖畏は、皆我見より生ず。我見は皆これ諸の衰と憂と苦との根本相なり」(『十住毘婆沙論』)と言います。私の感覚する様々な不安や、恐れは、「我見」といわれる私の先入観や、物差しにあるという指摘です。そして「我見」は、生きる意欲の衰えや、憂いや、苦悩を生み出す根源であるというのです。今の環境や現在の状況が、不安や、恐れ、苦悩を生み出しているのではなく、「我見」という無明に基づく分別心、私の思い込みに原因があるというのです。

実はそれは、一回限り、やり直しができない、唯一性の人生を果たし遂げていくことを、妨げるものとして、不安と恐れがあるからです。不安と恐れに呑み込まれていくとき、人は人生を歩めなくなります。足元に、崩れ落ち、どっちを向いて歩めばよいのか、行き詰まってしまうのです。その時、その不安や恐れが、現在の状況によって生み出されているのではなく、「我見」を生きているからであると気づかされるとき、改めて現実に向き合って、悪戦苦闘していく生活が始められるのです。この言葉は、我々を歩ませ続け、人生を完全燃焼させる「教え」、「呼びかけ」であるのです。

この問題は、視点を換えると、不安や恐れの心が起こったとき、「自分」に出会うチャンスになるのではないかと思うのです。不安や苦悩を感覚した時、私がどこに立っているのか、どんな物差しを振りかざしているのかが、あぶり出されてくるのです。不安な心が出たとき、いま、自分の立っているところが、「我見」という「道理」に(「万物一体の真理」清沢満之『精神界』)背く心、迷いの心を生きている「私」を知らされるご縁となるからです。

実は、それが阿弥陀仏に出遇うということ、阿弥陀仏に照らされるという意味で、「自分」に出会うということです。

普段我々は、自分の向こう側に阿弥陀仏をたてています。不安があって、その不安を阿弥陀仏が救うという発想になっています。私の不安と阿弥陀仏とが、二元対立的な関係になっているのです。実は、不安が阿弥陀仏の呼び声であり、不安が私の実相、「迷い」を気づかせる契機となるのです。私の「ありのまま」を照らし、知らせるハタラキを阿弥陀仏と呼ぶのですから、まさに不安が、「私」―「我見」を知らせる阿弥陀さんです。

親鸞聖人は「無数(むしゅ)の阿弥陀ましまして」(「浄土和讃」『真宗聖典』四八八頁)と言われます。実はこの世の一切の出来事、私の心の動きまでが、私の生き方を問いかけ、私の実相を気づかせるハタラキかけであるということです。

二〇一六年を振り返って、どこで阿弥陀さんと出会えただろう。どんな自分と出会ったのだろう、と自問している年末です。

(桑名組・西恩寺住職 二〇一六年十二月下旬)

023 「らい予防法」廃止二〇年、 ハンセン病問題が問うてくるもの

訓覇 浩

二〇一六年も残すところあと一ヵ月となりましたが、今年は、ハンセン病を患った人を療養所に終生隔離し、患者やその家族に多大な被害を与え続けた「らい予防法」が廃止されて二〇年の節目の年でありました。

そこであらためて、ハンセン病隔離政策がもたらした被害に、向き合ってみたいと思います。

「つらくて、いたい。台の上に上がったときに器具の音を聞きながら気を失った。子どもを引きずり出された。顔をたたかれて目が覚める。鼻も口もガーゼで押さえらればたばたしている赤ちゃん。へその緒が波打っていた。髪の毛が真っ黒だった。子どもが殺される。看護婦は子どもをもって走っていってしまった。その時の医師はこういった。「園の規則まで破って、子どもをつくって恥ずかしくないのか」水さえ飲ませてもらえなかった。その悔しさは忘れられません」

ハンセン病回復者で、ハンセン病療養所で現在も暮らす女性が、強制堕胎させられた経験を自ら語られた言葉です。

私たちの国は、一九〇七年から一九九六年まで、九〇年にわたって、ハンセン病を患った人を一生療養所に閉じ込めるという「ハンセン病絶対隔離政策」を行ってきました。その政策が与えた被害は、「ひとりひとりの全人格、全人生にわたる」被害と表現されますが、その中でも、断種・堕胎は、最も酷い仕打ちであると、多くの入所者が語られます。

また、隔離政策は、入所者と家族、ふるさとを断絶しました。家族・ふるさととは人間にとって、私としていのちを受ける根源、託生の根源です。

さらに、園内では本名が奪われ「園名」を名のらされてきました。これは、「その人をして社会の中で生活することが許されないものとの自己認識を強いる」ためになされたと確かめられています。本名が奪われるということは、その名によって紡いできたあらゆる人間関係が奪われるということであります。

ハンセン病隔離政策は、自らのいのちのルーツであるふるさと、家族を奪い、子孫を残すことを拒絶し、さらにその人が「自分自身」であることをも奪おうとするものであったと言えます。まさしく、人間としての尊厳、独尊性そのものに向けられた刃であったのです。

今日は詳しくお話しすることはできませんが、真宗大谷派は、この隔離政策の非道さを見抜くことができず、隔離は救済であるとして、隔離を受容することを入所者に語ってきました。それは、大きな隔離政策への加担といえます。

そのような自らの歴史に向き合いながら、隔離の被害を受けた方の声をしっかりと聞き、隔離されてきた人、隔離してきたものが、共に解放される道を求めてまいりたいと思います。

(三重組・金藏寺住職 二〇一六年十二月上旬)

022 その「はじめ」

藤井 慈等

今年も親鸞聖人のご命(明)日、十一月二十八日を迎えます。この日を「御正忌(ごしょうき)」といって、真宗本廟は勿論(もちろん)、全国の真宗寺院でもこの日を期して報恩の法会(ほうえ)、いわゆる報恩講がお勤まりになります。

さて、親鸞聖人の亡くなられたその時のご様子を、覚如上人の『本願寺聖人伝絵(でんね)』では、「頭北面西右脇(ずほくめんさいうきょう)に臥(ふ)し給(たま)いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。時に、頽齢(たいれい)九(きゅう)旬(しゅん)に満ちたまう」(『真宗聖典』七三六頁)と、その九十年のご生涯をいわば「ただ念仏一つ」のご生涯として、感銘深く頂き直されているのであります。

ところが、そのような覚如上人のいただき方とはちがった趣(おもむき)を感じさせるのが、親鸞聖人の連れあいである恵信尼(えしんに)さまのお手紙、『恵信尼消息』なのであります。これは、親鸞さまが亡くなられたことを、お子さまの覚信尼(かくしんに)さまが母である恵信尼さまにお手紙をもって知らされるわけでありますが、それに対するお返事なのであります。しかし、娘・覚信尼さまのお手紙がどのようなものであったのか、それは残っていないので分かりませんが、親鸞聖人の九十年のご生涯、その最後のお姿に、娘さまが何らかの疑問、不審を抱いておられたことが推察されるのであります。

それというのも、お手紙には「昨年(こぞ)の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかに見候(そうら)いぬ」(『真宗聖典』六一六頁)と。そして「何よりも、殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候う」(同頁)とあるのです。つまり「殿」、すなわち夫である親鸞さまが、「往生なされたことは、今更言うまでもないことです」間違いないことだと、わざわざお答えになっておられるからであります。

そしてそれに続くお返事には、親鸞聖人二十九歳の時、比叡山を下りられて、六角堂に百日こもられた出来事、そして夢告(むこく)をうけられたこと、更には法然上人のもとに百日通われ、「生死(しょうじ)出(い)ずべきみち」(『真宗聖典』六一六頁)を確かに聞き取られたという、法然上人との出遇いが取り上げられているのです。つまり、人と生まれ、そして道を求めて歩まれた、その出発点、いわば親鸞聖人の「出世の大事」を、母と子がその人の死を通して、その「はじめ」にたち帰ることを確めておいでになるということです。

ご承知のように、蓮如上人は『白骨の御文』において、「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに」(『真宗聖典』八四二頁)と、浮き足だって立つべき大地を見失っている私たちに、「死」を我が身の死として、「後生の一大事」(同頁)を呼びかけてくださいます。

このように、報恩講は、私たち真宗門徒が何を大事な課題としているのか、その「はじめ」の一歩を確かめる、一期一会のご法事としてお勤めする事が願われています。その歴史が、今日まで脈々と伝えられてきている、そのように思うことであります。

(南勢二組・慶法寺住職 二〇一六年十一月下旬)

真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。