荒木 智哉
先日、突然の事故で大切な友人を亡くしました。私はとめどなく悲しみがこみ上げてきて、ひとりでいることが大変つらく、生前親しかった仲間たちとともに、葬儀を含めての四日間、毎日集まって友人の死を悼みました。
葬儀が終わってからひしひしと感じたことなのですが、この四日間を私たちは悲しみを尽くし、悼むことによって、友人の死と向き合い、受け容れようとしたのではないかと思うのです。
では、死を受け容れるということはどういうことなのでしょうか。
死を受け容れるということは、こうすればこうなるといったふうに頭で理解できるものではありません。時にそれは人によっては何年もの長い時間がかかる場合もあります。しかし、悲しみを避けて通ろうとするのではなく、葬
儀を通して、私たちは死にしっかりと向き合わなくてはならないのではないでしょうか。
私自身、最近の葬儀に疑問を感じることがあります。自分の親しい人が亡くなったことへの悲しみと別れだけが強調されていて、本来、葬儀という通過儀礼が担っている、死に向き合うという大切な場であることが忘れられて、儀式が形式化してしまっているように思うのです。
真宗のいのちである念仏とは、「念」という言葉が示す通り、憶念する、憶い続けて忘れないということです。亡くなった人の声を聞き、そこから悲しみ、悼むという感情を通し、それを突き抜けることによって、死から生きることの尊さ、自分がどう生きていくべきなのかが見えてくる。これこそが死を受け容れるということではないでしょうか。
最後に、ある友人の言葉が今でも心に残っています。
「あなたが亡くなったらといって、その存在は計算式のように1‐1=0では決してない。なぜならば、あなたは今でも私たちの中で生き続けているのだから。」
(桑名組・西光寺衆徒 二〇一三年八月中旬)
藤嶽 大安
「おかげさんで、元気で過ごさせてもらっていますわ」と言う時の「おかげさん」は、心や身体が思うように動いてくれるので、そのことに感謝するという意味で使われている言葉ではないでしょうか。
また、元気に過ごしているということは、たくさんの人たちに助けてもらったり、身体のあちらこちらが、寝ている時も一生懸命動いていてくれるおかげですから、そのことに気がつくと、それらに感謝する気持ちがおこり、「おかげさんです、ありがとう」という言葉が出てくるのではないでしょうか。
では、「おかげさん」と表現する時の、もう一つの意味を考えてみたいと思います。
元気で過ごせることは嬉しいことですが、いつ病気になるかわかりません。元気の隣には病気があります。隣に病気がいるのに、それがなかなか見えていません。そして、病気になると、こんなはずじゃなかった、という気持ちになり、「おかげさんで病気になりましたわ」とはなかなか言えません。
なぜ言えないのでしょう。それは、自分の思うように物事が進んでいないから、とても感謝できるという気持ちにはなれないからではないでしょうか。
日常生活では、自分の思い通りにならないことが起こってきます。そして、その起こってきた事実に対して、こんなはずじゃなかった、という気持ちが出てきます。
また、その出てきた気持ちに自分が縛られて、なかなか事実を認めることができません。事実が目の前にあっても、事実が事実として受けとめられないでいるのです。
親鸞聖人のご和讃に、
煩悩にまなこさえられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(『真宗聖典』 四九七~四九八頁、「高僧和讃」)
というお言葉があります。
煩悩いっぱいの私に、
「事実が見えていませんね。見えていないということにも、気付いていませんね。でもね、自分の姿が見えていないというその部分、その所に目が向くと、今までと違う、新しい歩みが始まってくるのですよ。
元気で過ごしているからいいということも、病気になり、悪いことが起こってしまったということも、みんな、あなたの思いなんですよ。
よいと思うことも、悪いと思うことも、あなたのものの見方なんですよ。
病気になったことによって、思い通りにはいかないことに出遇い、自分の都合で見ていたことに気付かされるのですよ。
それもね、気付かせてくれるのは、悪いことと捉えていた私の思いによってですよね。
だから、気付かせていただくということで言うならば、どんなことでも、みんな、おかげさんになるんですよ!」
と、おかげさんの方から、喚(よ)びかけられているのではないでしょうか。
(三講組・敬善寺候補衆徒 二〇一三年八月上旬)
小幡 智博
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌は、真宗門徒にとっては五〇年に一度の御遠忌法要として、特別な法要であることは間違いのない事実であります。
宗祖のご遺徳を偲びつつ、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏のみ教えを、ともに確かめあう場として、大切な意味を持っていると思います。
一昨年、本山で勤まり、そして、桑名別院でも来年の三月二七日~三〇日まで法要をお勤めさせて頂きます。
さて、さきほど申し上げた通り御遠忌法要は五〇年に一度ですが、全ての人々の人生において必ずしも、その法要に出遇えるものではありません。
そう思うと、私たちが今回の御遠忌法要をお迎えできるということは、この上ない慶びであると言えるでしょう。
しかし、御遠忌法要にお参り出来ることだけが慶びなのでしょうか。
私達は生活において、それぞれの大切な方を機縁として、年忌、祥月命日、月忌、そして毎日のお朝事お夕事と、御本尊である阿弥陀様に手を合わせます。
日々のお朝事、お夕事をお勤めする生活の延長線に月忌があり、祥月命日があり、年忌・永代経・報恩講があります。
そして、御遠忌法要もその延長線上に位置するものであります。
お念仏を申す一日一日の生活の積み重ねが、それぞれの法要を迎えることに繋がっているのだと思います。
つまり、根幹にあるのは、日々お念仏を申す、言い換えれば報恩謝徳の気持ちを持ち続ける生活が大切なことであり、そこに慶びがあるのではないでしょうか。
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要を今私たちがお迎えできるということは、数えきれない大勢の先達の日々お念仏申してくださった生活の上に成り立つものではないでしょうか。
私達は御遠忌を迎えるにあたって、特別何かを始めるのではなく、もう一度それぞれの胸に、本当にお念仏を申す生活を続けているのか、そこに慶びを感じているのかを問い直すことから始めていくべきではないかと思います。
(南勢一組・西光寺衆徒 二〇一三年七月下旬)
吉村 誠幸
七月二日の新聞に「四歳育児放棄事件」の裁判判決が載っていました。この事件は昨年九月に育児放棄の末に四歳の子が衰弱死したという事件でありました。
発見された時は、あばら骨が変形するほど痩せて、かすかにまぶたが動くだけという状況だったそうです。新聞には写真も載っており、かわいい盛りの女の子です。父親は酒に逃げ、母親も自分自身が愛情を受けずに育てられたということでした。
子を亡くした母親は、「自分自身も母親ってなんだろう」とずっと思っていたそうです。
この思いを見て私は、「子を持って知る親心、子を持って忘れる子の心」(西口和憲編『いいこと書いてあるなぁ!』法蔵館)という言葉を思い出しました。
私も親になり親の心を少しずつ分かってきたところがありますが、子どもと一緒に毎日考え悩みながら親になることを努力しています。しかし、この思いが強いがゆえに自分中心に考え、子どもの心というのをすっかり忘れてしまっていると、この言葉に気づかされます。
「子は親の背中を見て育つ」と言われますが、子どもの姿を見て親も育つのではないでしょうか。
私たちは亡くなった人を通して「いのち」というものを気づかされ、生きていくことの大事さを学んでいきます。この事件を通して幼くして亡くなった子からいのちというものを深く考えさせられ、その意味を教えられたような気がします。
育児放棄した親は心の中で「ごめんね、ごめんね」と話しかけたそうです。答えがないことを知りながら。そして住職に手紙を書き、出所後はお墓を建てたいので、預かってほしいと嘆願したそうです。そして、「同じお墓に入れてもらえるようしっかり更生していく」と記して。この親はわが子の「死」を通して生きることの意味が初めて見えてきたのではないでしょうか。
(三重組・專照寺住職 二〇一三年七月中旬)
梅田 良惠
私は自分のお寺の境内に、いろいろな木を植えてきました。五、六年前に、以前からほしかったレンギョウの苗木を一本植えました。一、二年の間は雑草に紛れて花を咲かせていました。ところがそれから数年経ち、あるときレンギョウそのものが無くなっていることに気がつきました。枯れてしまったのかと思ったのですが、その翌年何本かの枝が株から伸びていました。つまり、枯れたのではなく、伐採されていたのです。
私のお寺では毎月門徒さんが、班交代で境内掃除に出ていただいております。多分レンギョウは、花の咲いてない時期に、ただの雑木としてみられ、切られてしまったのでしょう。そのレンギョウが六月に再び伐採の憂き目にあってしまいました。いよいよ立札を立て、「レンギョウここに有り、伐採禁止」とでも書いておかねばと思ってしまいました。
さて、そこでふと考えたことがあります。
私は自分の大切な木を切った人に対して、親切心でやってくれたこととはいえ、大切な木と雑木との区別もつかない、何にも見えてないひどいやつだと思っています。逆に、私は被害者であり、また何でも見えている気になっています。
でも、私は本当に何でも見えているのでしょうか。レンギョウを何も知らずに切ってしまった人の立場に、自分の身を置いてみたらどうでしょうか。普段、人に迷惑をかけず、ときには親切な行為をする自分が、ときとして現実は大迷惑をかけているかもしれないのです。自分が何をしでかしたのか、本当の自分になかなか気がつけない自分がいます。そこが人間の一番厄介なところです。
蓮如上人は人々が信心について語るお講の場で「物をいえいえ」とか、「物をいわぬ者は、おそろしき」とおっしゃられました。人のことをほめたり、批判するために物を言うのでなく、お互いが自分に気づくために物を言え、というのでしょう。本を読んだりして自分に気づくという場合もあるかもしれませんが、ややもすれば自己満足で終わってしまいます。
その上でレンギョウの今後のことを考えてみますと、「レンギョウここに有り」の立札も必要ですが、切ってしまった人に対して、「ごめんね、これは大切な木だからこれからは、気をつけてね」、と直接もの申すのがよいのかなと思っています。
(三講組・圓琳寺住職 二〇一三年七月上旬)
五十川映子
自分の若い頃は、家というものは特に関心を持たなくても、何気なく成り立つものだと思っていました。しかし、今の年齢になると、これを維持し続けることは、大変な努力をしなければ難しいものだったのだと、今さらながら思います。
今、自分の目の前にある問題として、後継ぎがいないということがございますが、ご門徒様の家でも同じような状態で、そこではお仏壇が問題になっています。
ご両親が亡くなられ、娘さんは他家へ嫁ぎ、実家のお仏壇をどうしようか、と。
嫁ぎ先へお仏壇を入れると、両家のご先祖様が喧嘩をするのでダメだとか。
別のお家では、嫁ぎ先にお仏壇を運び入れる場所がないと悩んでおられました。
ここで何が一番の問題になってくるのかということですが、ご先祖様が中心のお仏壇であれば、毎日仏壇に手を合わせている時でも、今日も一日無事でありますようにとか、色々な「頼み事の仏様」になってしまっているのではないでしようか。
今年一〇三才で亡くなられた方が、亡くなられる前に、「今、ここに沢山の阿弥陀様が居られる」と言って、浄土に還られました。ここに真宗門徒として、お念仏を申してこられた方があったと言えます。
真宗のお仏壇には、中央に阿弥陀如来がご本尊として居られます。しかし、このことが抜けて、先に述べた「頼み事の仏様」になってしまっているのでは迷いが生じます。
心情的には、ご先祖様があって今がある、ということもわかりますが、阿弥陀如来が中心の生活が出来たらと思います。
(三重組・因乘寺住職 二〇一三年六月下旬)
桑原 克
今年三月に、弟が仕事場で急死しました。朝、いつものように元気に出かけたのですが・・・。
まさかの出来事で気が動転する中、仏事を迎え、お通夜には、二〇〇人を超えるお参りがありました。突然のことで、家族も知人もただ驚き、何が起こっているのか、朦朧としたままひと通りの仏事を済ませました。その後、七日参りのたびに、法話を聞きながら、残された連れ合いや、子どもたちと、「いのち」や「人生」について住職が話し合いをしていました。
「いのち」とか、「人生」について、考える時間ができたことは、大変よかったのではないかと思っています。
改めて、私にとっての弟の死は、「おまえも死ぬぞ」、「本当に死んでいけるのか」と、今の生き方が厳しく問われた気がします。目先に追われ、いつまでも「いのち」があるかのように思い、生活をしています。まだまだ、死ねない、未練の残る生き方しかしていない自分が、あぶり出されました。
親鸞聖人のお手紙に、「生死無常のことわり」(『真宗聖典』六〇三頁)という言葉があります。人生のはかなさ、〝生まれた者は必ず死す〟という道理のことです。このお言葉は、いのちには「道理」がある、ということを教えられています。
ご法話でお聞きしたことは「いのちの全相」という言葉でした。いのちは、四つの相、すがたを持っているということでした。
一つは「生相」(生まれるというすがた)、
二つ目は「老相」(老いるというすがた)、
三つ目は「病相」(病気になるというすがた)、
四つ目は「死相」(死んでいくというすがた)です。
これがいのち全体のすがたであるということでした。実は、それは本来のすがたであり、いのちの事実であります。しかし、私たちはこの事実を真っ直ぐに受けとめられない、深い無明を生きています。南無阿弥陀仏は、「事実に還れ」という呼びかけです。その呼びかけが聞こえる時、この事実に深く頷く時、悲しみに向き合い、苦しみを背負う力となるのではないでしょうか。
生活は、私の思いに立つか、道理に立つかの選びです。今回の弟の死を通して考えさせられました。
(桑名組・西恩寺門徒 二〇一三年五月中旬)
佐々木 顯彰
会議に出席するため、昨年六月に岐阜県高山市にある高山別院に訪ねるご縁をいただきました。
飛騨高山といえば、高山祭り、朝市などを思い出しますが、かの有名な念仏者として生きられた中村久子氏の生誕地でもあります。
この時、高山別院での中村久子展を拝見する機会を得ました。
中村久子さんは、三歳の時に「突発性脱疽」という難病にかかり、命が危ぶまれるために両手両足を切断し、その後の人生を歩まれた方です。
このような状況での日常生活は想像を絶するものであったと思われます。
久子さんの言葉には、母親に対する恨みと怒りを、
「宿世には いかなる罪をおかせしや 手足なき身のわれは悲しき」
と、その心中を語っておられます。
そんな生活状況の中で、お念仏の教えに出遇う原点になったのが、『歎異抄』だったのです。
久子さんの後半生を窺いますと、親鸞聖人の教えによって、身の事実を引き受けられ、仏恩への感謝と共に、両親や夫などへの深い感謝の言葉を述べられています。お念仏の教えによって、生かされている身を、
「手足なき 身にしあれども 生かさるる いまのいのちは とうとかりけり」
といただかれています。
本願念仏の教えを人生の柱として生きられ、外に向かって批判するあり方から、内なる我が身の事実を受け入れる温もりのある生き方へと転換された中村久子さんです。
久子さんの人生はともすると、昔話として捉えられ語られるかもしれませんが、決してそうではなくて、五体満足の身体でありながら、なにかしら不平不満だらけの私に、いつでも時代を超えて人生の課題を語られているように思います。
(三講組・安顯寺住職 二〇一三年六月上旬)
折戸沙紀子
私は、お寺に帰ってくる以前、葬儀会館で勤めていました。
勤めていた葬儀会館では、年間八〇〇件ほどの葬儀があり、たくさんの人・葬儀をみてきました。
その中には、身近な方をなくした、ご家族のさまざまな思いや、感情のぶつかり合い、そして、短い時間で通夜・葬儀をむかえられる慌ただしさがありました。
この、たくさんの気持ちが行き交う空間と時間の中で、私はとても苦手とする業務がありました。
それは、着付けです。
三畳ほどのスペースで、一人一五分程で着付けを行います。
たった一五分という時間ですが、着られる方というのは、故人の奥様や、娘さんや兄弟、故人ととても身近な方です。
着物を気にされる方もいれば、親戚のご心配や、会葬者のご心配をされる方、故人との思い出を語られる方、たった一五分の中での会話は、いろいろありました。一五分の会話は、あっという間です。
しかし、このような方もおられました。まったくお話されず、無言の方。故人が亡くなられてから一度も食事をとることができず、げっそりとされている方。放心状態の方もみえました。
そんな方と、三畳のスペースで二人きりでいる一五分が本当に苦手でした。
静の一五分はとても長く、何を話せばいいのか、どう接すればいいのか、ただただ、一五分という長い時間を、頭の中でいろんな思いをめぐらせて静かに終わるだけでした。
あるとき、職場の先輩に着付けが苦手だということを相談しました。
すると先輩は、「私は一番着付けが好きよ」と言われたのです。
「何で着付けが好きなのですか」と聞きましたら、先輩は、「故人が、どんな方だったのか、知ることができるから好きなんだよ」と言われたのです。
先輩は、着付けの一五分は、故人がどんな方だったか、どんな風に生きられたか、家族にどれだけ大事に思われているのか、お話しされる方の一五分でも、無言の方の一五分でも、少しだけでも、何か気づくことができる時間だと教えてくれたのです。
人と人との出遇いには、必ず別れがあり、そして、別れというのは終わりを意味していると、私は思っていました。
しかし、先輩の何か気づくことのできる一五分というのは、人と人との別れからはじまる出遇いなのです。
私は、故人や家族が、私に出遇おうとしてくれていたのに、それを無視していたのです。
別れからはじまる出遇い。先輩のように、すぐにはなかなか出遇うことができませんでしたが、一五分の静けさから生まれる苦手な感情は、何かあたたかいものに変わっていきました。
それが、出遇っているのかどうかはわかりませんが、人と人との出遇いには終わり、なくなっていくものはない。別れという出遇いが、家族だけでなく、たくさんの人の心に生きていって、伝わり、大きく繋がっていくのだと感じました。
(南勢一組・法受寺候補衆徒 二〇一三年五月下旬)
梛野 芳徳
ある日、知り合いのお寺さんで泊めさせていただき、あくる日のお朝事のことです。
六時半のお勤めに、副住職さんの横には、幼稚園に通う、可愛らしいお嬢さんが参っていました。まだ寒さが残る春の日の早朝、親子で勤めるほほえましいお朝事の光景を、少し離れたところから拝見していると、そのおんなの子は手に何かを持っていました。後ろから首をカメのように伸ばして見ると、誰かは知らないが、おばあちゃんの小さな遺影と、毛糸で編んだピンクのブタさんの人形を持っていました。お勤めがはじまるとその遺影を阿弥陀さんの前の敷居に置き、ブタさんの人形を膝の上に載せて、小さな体を丸めるように手を合わせて、しずかにお参りしていました。
後から副住職さんに聞くと、遺影のおばあちゃんは寺から嫁がれた方で、お寺に遊びに来ては、いつでも子どもたちにアイスクリーム、飴玉などのおやつをもって来てくれて、昔ながらの手まりや人形などを作っては子どもたちにプレゼントしてくれた、やさしい方でした。
そのおばあちゃんが半年前に亡くなり、お寺でお葬式をした後の、四十九日、満中陰の時、お父さんである副住職さんは、まだお参りすることの意味が分からないお嬢さんに、「今日は、死んだばあちゃんのお参りの日だよ。お菓子やお人形さんをたくさんくれて、やさしくしてくれたね。感謝して、『ありがとう』って、参ろうね」とやさしく諭して、お嬢さんに声をかけたそうです。するとその日以来、毎朝、お朝事には仏間からおばあちゃんの小さな遺影を持ち出し、自分の部屋からはおばあちゃんにもらったお気に入りのブタさんの人形を抱いて参るようになったというのです。
このおんなの子は、四十九日のお参りも、毎朝のお勤めも何の分別もなく、お父さんから教わった通り、素直に「おばあちゃん、ありがとう」と、仏さまに毎日、まいにち手を合わせているのです。毎日、まいにち手を合わせ、亡くなったおばあちゃんと出遇い続けているのです。やさしくしてもらった記憶を大切にしながら、いつでも「わたし」という存在がすぐそばにいる人たちだけでなく、先立って行かれた人たちから願われ続けていることを、このおんなの子は知っているのでしょう。彼女にとってナムアミダブツとお参りをする場所は、亡くなったおばあちゃんと自分自身とをつなぐ場であり、わが身にかけられた深い願いを聞きつづける場所なのだと思います。
前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後(のち)に生まれん者(ひと)は前(さき)を訪(とぶら)え、連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲ほっす。
無辺の生死海を尽くさんがためのゆえなり。
(『真宗聖典』 四〇一頁、『安楽集』)
道綽禅師のお言葉が聞こえてくるようです。
(南勢一組・源慶寺住職 二〇一三年五月中旬)
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。