013沖縄のおもい

高木彩

先日、沖縄での戦争の真実を再現した「沖縄戦の図」という絵を見ることができました。その絵には、様々な証言を基に親は子に夫は妻に手を下し、エメラルドの海が赤く染められてしまうという残酷な光景が描かれており、「いのち」と真剣に向き合った人々の姿は生々しく今も私の心に強く残っています。その絵に描かれている人々にはそれぞれいろんな思いがあったはずですが、描かれたほとんどの人々は無表情で眼が描き込まれていませんでした。私は最初そのことに全く気がつきませんでしたが、「眼が描き込まれていないのは、絵を見た人が、犠牲となった方々の立場であったらどんな眼をしているのかを自分のこととして考えてほしい」という作者の思いを聞かされた時、何処かで分かったことにして、目前に再現されている真実と少し距離を置いている自分に気づかされました。そして私はこの絵の作者から自分自身の生き方を問われているように思ったのです。「いのち」と真剣に向き合っている人たちを見て、それを自分のこととして考えてほしいということは、「いのち」と真正面から向きあえ!という叫びだと感じました。戦争のことを知り、さらに「いのち」は大切だと感じることはいろんな形でできると思います。しかしそれだけでは戦争さえ起こらなければそれでいいということになってしまうのではないでしょうか。このような考え方になると自分自身の関わりが見えなくなってしまい、自分自身を見失うことになりかねません。

「いのち」と向きあうことは簡単ではないですが、人やものとの様々な出会いから、知り得たことをきっかけとして、与えていただいた限りある「いのち」というものに真剣に向き合うことで、毎日毎日を生かせていただいていることの尊さに出遇うことができ、自分自身を見つめ直していくことで、「いのち」というものが、そして自分自身の生きる道が見えてくるように思います。

012新住職になって思うこと

本多 益

今年の春は足早に過ぎていこうとしています。梅も桜も自然の暖かさに敏感で、花を咲かせる支度を毎年忘れることなく繰り返してくれます。

先般も近郷の寺院で「親鸞聖人の誕生会」が境内の桜が満開の中、厳修されました。参詣の皆様も、ご法中の方々も春という季節のすばらしさを堂内に感じつつ、親鸞聖人のお生まれになった時代や季節のことを思い起こされていたのではないでしょうか。

私も昨年の3月に「新住職」としての道を歩み始めました。いわゆる「住職の誕生日」となるわけです。前住職から引き継ぐものはあまりにも多く、今だ対応しきれておらず、「住職」と呼ばれることにも抵抗さえ感じている毎日です。

しかし、門徒さんの家を訪問することが少しづつ多くなっていくに従って「変化」も表れはじめました。それは、住職になりたての私をあたたかく「見守ってくださる」方々が周りにたくさん存在するということです。

お葬式やご法事に出かけても、「大丈夫やろか、うちの新住職ちゃんとやってくれるやろか!?」と参詣もそこそこに心配をかけているようでした。前住職からも「はじめから完璧にできるわけがないやろ。まあ、あわてやんとゆっくり精一杯勤めてきたらどうや!」とアドバイスをもらいながらの法務が続きました。

夏の永代経・報恩講・修正会・春の永代経と年間の行事もなんとか前住職の支援を受けながら済ませ、やっと一年が過ぎようとしている先日、門徒さんのご法事の場で法話(感話)をする機会に出合いました。自分自身それまで法話(感話)は苦手でほとんどしてこなかったように思うのですが、今回は自分自身でも「何とか話をしてみよう」と心に決めて、その日を迎えようとしていました。

よく前住職は「話にはポイントが必要だ。」と言っています。だらだらとした話、世間話などは誰でもがすることであって、住職が仏事の中でする話とは違うということです。

そこで今回は季節も春ということで、桜の花が咲く前の「勢い」ということをポイントにして話を考えました。それは何気なく交わす前住職との会話の中から見つけられました。「桜の花は咲いてしまったら勢いはないな!何でもそうやけれど、咲く前の勢いは本当にすばらしい。桜も咲いてしまうと色は白いけれど、咲く前は濃いピンクやな。山の景色が浮き出て見える。」というものです。「えっ!桜の花が濃いピンク?」と疑いながら山の方を見ると、まさしく「濃いピンク」に彩られた桜が「これから咲くぞ!」という勢いを主張をするかのように点在していました。「これや!」と私ははっとしました。

「人生の勢いは、年齢的なものだけではないこと。子どもは子どもの、若者は若者の、壮年は壮年の、老人は老人の、それぞれの勢いをもって生きていくことが大切であること。桜の花のように満開を良しとするより、咲く前の勢いがあってこそ満開があることを忘れてはいけないこと」を。

今は桜の花の花吹雪が舞う時期にもなりましたが、来年の桜の季節に向けての準備が始まったわけでもあります。新住職たる私も、この桜の花の「勢い」に負けないように「住職道」を歩んでいきたいと思っています。

(2002年 4月下旬)

011子どもたちからの学び

藤岡法水

私の勤めております小学校では、毎年地域のゴミ拾いを実施しており、今年も空き缶やたばこの吸い殻など、大人が捨てていったたくさんのゴミが落ちていました。中にはエアコンの室外機やソファーなど子どもたちの手では拾いきれないゴミもたくさんありました。そのことについて話し合った時、子どもたちは「どうして大人なのに平気でゴミを捨てるんだろう」ということから始まり、「自分の家の庭だったら捨てないはず。だから自分のことしか考えていないんだ」「でもゴミを捨てることによって環境を破壊しているということは、自分たちが住んでいる地球を破壊していることになる」「つまり、ゴミを捨てることは自分の生きる土台を破壊していることになるわけで、自分のことしか考えていないようで、実は自分のことすらも考えられていないということだ」というように考えが進んでいきました。

あまりに自己中心的に生きているために、生かされている自分が見えなくなっている我々の姿が重なりました。地球が美しくなければ我々も生きていくことはできないし、そこにおける他者との関係性を抜きにして自己は存在し得ないのです。多くの命の上に、私の命が成り立っているという自覚があるかどうか。

今を生きる我々が自分の足下が見えているのか、そしてまた、自己の命に対する責任をどうとっていくのかという問いが見えてきます。

それがとても曖昧になっているのが今の日本の現状なのではないでしょうか。

しかし、子どもたちは、ポイ捨て防止を訴える看板や環境保護ポスターを立てたり、町役場に訴えたり、学校の行き帰りにゴミを拾ったりと行動を起こしています。自分たちのふるさとを守るために。そして「地球人」である自分たちの命の源である地球を守るために。それは子どもたちの命の願いだと私には思えるのです。

010南無阿弥陀仏こそ真のリハビリテーション

川瀬 智

最近よくリハビリという言葉を聞きます。その意味は、通常、単なる身体的な機能の回復のための訓練と認識されています。

「リハビリ」とは「リハビリテーション」を省略した言葉であります。その語源をたどってみると、《ラテン語で「リとは(再び)+ハビリスとは(ふさわしい)+エーションとは(~にすること)》とあり、何かの原因により人間に相応(ふさわ)しくない状態に陥った時、「再び人間に相応しい状態にすること」がもとの意味であります。

「相応しい状態に戻す」には、先ず、人間に相応しくない状態にいることに、自分自身が深く気づくことが必要ではないでしょうか。

「疑惑の総合商社」と揶揄(やゆ)される国家議員もあるように、公の利益の美名を掲げ国民を欺いてでも公共事業を材料に、もっぱら自らの票と資金を集め、議員バッジと先生の称号を得る利益誘導人生、それこそ自分に相応しい状態と考える政治家の人々が、現在問題になっております。そんな政治家には、国民の批判は単なる批判の声に終わり「再び人間に相応しい状態に戻ってください。真の政治家になってください。」という声と聞こえていないようです。

親鸞聖人は、『正像末和讃』に、「是非しらず邪正(じゃしょう)もわかぬ このみなり 小慈小悲もなけれども 名利(みょうり)に人師(にんし)をこのむなり」と。(真宗聖典511頁)

自らを、いつでも《「名聞(みょうもん)」という世間の評判を得たい、「利養(りよう)」という人から利益を得たい、また人の上に立ちたいという「勝他(しょうた)」》この三つを求め、その実現こそ私に相応しい状態になることだと思い込み、限りなく流転してゆくお粗末で愚かでおはずかしい自己と知らされたと深い慚愧(ざんき)をしておられます。
そして、その慚愧与えてくださるはたらきは、私を大いに悲しんでくださり、救わずにおかないという阿弥陀仏の御本願の深さであった、南無阿弥陀仏の召喚(呼び)声であったと感動されています。

「私達を心身ともに相応しい状態に戻す真のリハビリテーションは、念仏申す生活にある」と、宗祖親鸞聖人の慚愧と感動のメッセージを、いただく歩みを共々に始めましょう。

(2002年 4月上旬)

009此の岸に、現に生きてはたらく彼岸

森英雄

お彼岸はお墓参りをするためにあるわけではありません。地獄一定の自分を彼岸に触れて、改めていただきなおす、人生修行の始めを表すものです。そこから最も積極的な生き方、御本願に帰依し、お念仏に生かされていきましょうという生活が今日も今日もと始まってきます。

一緒に生活をすれば、いろいろなことが起こってきてくださいます。食事一つにしても、高校生の息子はクラブ活動の後、塾へ行って帰ってくると10時頃。こちらはお腹が減っているだろうと思い、ご飯にしたらと言う間もなくストーブの前で寝てしまう。疲れているからそっとしておいてやろうと思っても12時が限度。「一体いつまで寝ているのか。待つにも限度がある。ご飯がいつまでも片付かないじゃないか。作る者の気持ちもちょっとは考えたらどうだ。こちらも明日があるのだ。そんなことしていたら明日は遅刻するぞ」等、手を変え品を変え言ってみるのですが、帰ってくる言葉は「うるさい。黙れ。片付ければいいんだろ」だけ。

なぜこうなるのでしょうか?それは、子どもに対する姿勢が「この私を何と思っているんだ」という高い所にいるからです。自分の思う通りにならせようとする貪欲が、相手から苦しめられておると自分に思わせているのです。自分が自分に括られて苦しんでいる。相手の出方が問題ではなく、自分自身の正体を知らないから、次から次へと問題を与えて、我が身に気づけと教えてくれているのです。対象が何であれ、己の貪欲が迷いの根本であると教えてくださるのです。ここに頭が下がって(南無)初めてお世話させてもらえるような代物ではないからこそ、と知らされる。そこに一つ一つ丁寧に、させてもらえる境地がいただけてきます。彼岸は生きて用(はた)らいて、私が「最低の人間である」ことを知らせ、お念仏に生きることで、毎日新しく勇んで仕事させてもらえる力を与えてくれています。

008大いなる願い

梅田美香

先日、あるおばあさんが、お寺に来てこんなことを言っておられました。「あっという間の人生やったわ。小さい頃は親のために結婚して、夫の為・子どもの為にとがんばってきたけど、今の私には何もあらへん。体も思うよう動かなくなってきたしね」その言葉を聞いた時に、私はなんだかとても悲しくなりました。

このように思うのは、このおばあさんに限らず、誰にでもあることだと思います。何かの為に、誰かの為に生きている人生。それではまるで、誰かのせい、何かのせいにして、その上に自分を立たせて、自分を犠牲にしてきた人生としてしか受け止めることができません。確かに私たちは、生きていく上でいろいろな人や物や、どうしようもない現実に縛られています。その中で本当は、他ならぬ自分自身が、人や物を「よりどころ」として生きているのではないでしょうか。そして、それらの「よりどころ」としてきたものを失った時、まるでそれらの犠牲になったように、人生を嘆いてしまうのでしょう。

私自身も、いつも人生に何かを期待し、変わっていくものを「よりどころ」とし、それに裏切られ、愚痴をこぼしていまいます。

「仏の教え」では「私が何かを願うのではなく、この私自身に仏の願いがかけられている」と言います。私個人の願いでなく、もっと深くて広い仏からの「大いなる願い」は、私の思いでどんなに考えても分かりませんが、人間として生まれてきたからには、この「大いなる願い」とは何なのかを、この人生の意義に惑っておられるおばあさんと共に「仏の教え」に聞いていきたいと思います。

007いのち

松下至道

以前知り合いから聞いた話ですが、ある方が仕事や人間関係に疲れ果て自殺を考えていたそうです。

ある日その方は、「いつ・どこで死のうか」ボッーと考えながら車を運転していると、事故を起こしかけたのですが、直前に我に帰り急ブレーキとハンドル操作で大事には至りませんでした。もし、そのままであったら、いのちを落としかねない事故になっていたと思われる程危うかったそうです。

そしてその方は、その時にふと「危なかった」と言ったそうです。そして気持ちが落ち着くとともに、自分のとった行動と言葉に対して驚きというか不思議な感じがしたそうです。「自分は死にたかったのではないのか?それなのに何故だろう?」その方は自殺することを止めました。

私たちはいのちを自分のものだと思い込んでいます。「自分のいのちをどうしようと自分の勝手ではないか」と。しかし、本当にそうなのでしょうか。自分の思いは「死にたい」としても、いのちは生きようとしています。しかも、自分で作ったいのちなどありません。気がついた時にはすでに与えられていたのです。私たちは自分で生きていると思っていますが、生きている以前にそのいのちに生かされているのではないでしょうか。

いのちの流れは、親から子へ、そして孫へというふうにつながっていきます。いのちからいのちへと大きな流れとなってずっとつながっていくのです。私たちの思いを越えて。

南無阿弥陀仏の「阿弥陀」には、「限りないいのち」という意味があります。私たちのいのちは、大きないのちの流れから生み出され、そしてまたその流れに帰っていくのです。私たちの口から出るお念仏は、そのいのちが言葉となって出てきてくれるものではないでしょうか。お念仏を聞くということ、そしてお念仏を言うということは、いのちの言葉を聞き、そのいのちを精一杯生きるということだと思います。

006明けましてありがとう

安田豊

「明けましておめでとうございます」

年の初めに、ご門徒さん宅へお勤めに行くと必ず交わされる言葉です。しかし、先日聞いたことのない言葉で私を迎えてくれたお宅がありました。「ご院さん、明けましてありがとうですよ」93歳で一人暮らしのおばあさんの言葉です。その挨拶に「あれっ?」と思いましたが、おばあさんは「この歳にもなると、新年を迎えられたことが、たいへんありがたいです」と続けられました。その言葉に漠然と「本当や、ありがたいね」と答えては見たものの、実は私にはおばあさんが感じている実感はありませんでした。

その言葉を聞いて、この新年をさも当然のように迎えた私と、「ありがたい」と迎えられたおばあさん。「今」の受け止め方が違うと感じた瞬間でした。そして同時にはっきりと分かったことは、おばあさんの方が私よりも「今」に感動して生きているということです。

「もったいない、ありがとうございます」そんな気持ちが伝わってくるその一言に、私は「お念仏」の響きを感じずにはいられませんでした。思うに恥ずかしながら私の1年は、その言葉で始まった気がします。新年早々、記憶に残る良い言葉に出合ったものです。

005ありがたいの重さ

林政義

東海地方に大雪が降りました正月早々、私は足を滑らせて全身を強打いたしました。幸い骨には異常はなく事なきを得ましたが、家に戻りましてからホッと油断したせいか、全身に激痛が走りトイレに行くことはおろか、寝返りさえ打つのが困難な状況になりました。
この70余年間入院生活はおろか、3日と寝たことがない私は、妻の手を借りずには生活ができず、そのもどかしさや情けなさとともに、いつ回復するのだろうか、大丈夫だろうかと、さまざまな恐れや不安が襲ってきました。

しかし、少し落ち着くと、健康であるのが当たり前と思っている私であったことに気づかされ、改めて健康のありがたさを強く知らされ、床の中で合掌し「ありがたいことだ」とつぶやいていました。そして、ある先生のお言葉を思い出しました。それは、十字の名号である「帰命尽十方無碍光如来」の「尽十方(じんじっぽう)」とは、光に遇い得るはずのない私。その私ですら光に照らされているという感動において讃えられている言葉なのです。同様に、「ありがたい」という言葉は、自分はこういうことをしてもらえるはずのない者にもかかわらず、いま現にこのようにしてもらっているという事実に驚き、感動した歓びの言葉である。してもらって当然と思っている者には「ありがとう」という言葉など出てくるはずがない、という内容でした。

我々が勝手な思いで全て当たり前だと生きていることが、どれだけ人を傷つけ、あらゆるいのちを奪ってきたかを思います時、「ありがたい」という、この言葉の重さを感ぜずにはおれません。

004最期のプレゼント

本田武彦

昨年の秋、私の実家の父が67歳で亡くなりました。肺ガンでした。病気が発見されてから3カ月余りで逝ってしまったので、その間会うことができたのは、ほんの数回でした。「また近いうちに来るし」「ああ、気をつけて帰り」それが最後の会話になりました。次に会った時、父の顔には白い布が掛けられていました。そっと持ち上げると、そこには意外なほど安らかな表情がありました。それから3日間、ずっと父のそばに居ました。今までずいぶん長い時間を父と過ごしてきたはずなのに、その3日間ほど父を思い、父に話しかけたことはありませんでした。浮かんでくるのは思い出が半分、後悔が半分。自分が父から与えられたもののあまりの多さ、大きさに初めて気づき、それらに対して何も返してこなかったことを心底情けなく感じました。そして改めて、人が亡き父母の追善供養を願い、そのために手を会わせずにはおれないという思いの深さをも知らされました。しかし同時に、亡くなった人のために何かができるような力など、私には決して無いのだということも明らかなことであります。もしそのようなことができるのだと言うならば、それは傲慢以外の何ものでもないでありましょう。

『歎異抄』第5章には「親鸞は父母(ぶも)の孝養(きょうよう)のためとて、一返(いっぺん)にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」(真宗聖典628頁)とのお言葉があります。人間の思いがいかに深いものであろうとも、真実はそれを越えた厳然たるものであることを明らかにされているのです。聞きようによっては冷たくすら感じるこのお言葉の中には、念仏の教えに目覚め真実に生きよ、との聖人の熱い願いがこめられているのだと感じたことであります。

父はその命をもって、返しても返し切れず、また決して無くなることのない大切なものを私に与えてくれました。

真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。