カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2016年

025 あとがき

テレホン法話集「心をひらく」第38集をお届けします。昨年(2016年) 1年間の24人のご法話を収めました。

さて、2020年、東京オリンピツク開催まであと3年となりました。創始者であるクーベルタン男爵は世界の各地で紛争、戦争が絶えないことを憂い、スポーツを通して平和な社会の確立を目指しました。

オリンピツク憲章では、国別のメダルランキング表の作成を禁じています。

勝利をおさめた栄誉は、あくまでも選手たち自身のものなのです。しかしながら、マスコミを通じて報道される日本のメダル数に、一喜一憂する自分がいます。日本人の選手を負かした相手国の選手の勝利を喜べない自分がときとしています。テロなど最近の世界的政情不安の中で、平和を求めるとはどういうことか、オリンピツクを通して今一度、間う機会になればと思います。発刊にあたり関係者諸氏のご苦労に感謝申し上げます。

(社会教化小委員会 幹事 梅田良惠)

024 「不安」は阿弥陀さん

池田 徹

龍樹菩薩は人間の恐れ不安を、七つ挙げています。自己流で言うと、生活ができなくなるのではないか。死んでしまうのではないか。嫌なことが起こるのではないか。人間関係がうまくいかず、居場所を失うのではないか。馬鹿にされ、なめられるのではないか。孤独にさいなまれ、心が落ち込んでいくのでなはいか。なにか、とんでもないことを、しでかしてしまうのでないか、という問題を抱えていると言えます。

しかし、これらの不安、怖れはどこから起こってくるのかというと、龍樹は、「一切の怖畏は、皆我見より生ず。我見は皆これ諸の衰と憂と苦との根本相なり」(『十住毘婆沙論』)と言います。私の感覚する様々な不安や、恐れは、「我見」といわれる私の先入観や、物差しにあるという指摘です。そして「我見」は、生きる意欲の衰えや、憂いや、苦悩を生み出す根源であるというのです。今の環境や現在の状況が、不安や、恐れ、苦悩を生み出しているのではなく、「我見」という無明に基づく分別心、私の思い込みに原因があるというのです。

実はそれは、一回限り、やり直しができない、唯一性の人生を果たし遂げていくことを、妨げるものとして、不安と恐れがあるからです。不安と恐れに呑み込まれていくとき、人は人生を歩めなくなります。足元に、崩れ落ち、どっちを向いて歩めばよいのか、行き詰まってしまうのです。その時、その不安や恐れが、現在の状況によって生み出されているのではなく、「我見」を生きているからであると気づかされるとき、改めて現実に向き合って、悪戦苦闘していく生活が始められるのです。この言葉は、我々を歩ませ続け、人生を完全燃焼させる「教え」、「呼びかけ」であるのです。

この問題は、視点を換えると、不安や恐れの心が起こったとき、「自分」に出会うチャンスになるのではないかと思うのです。不安や苦悩を感覚した時、私がどこに立っているのか、どんな物差しを振りかざしているのかが、あぶり出されてくるのです。不安な心が出たとき、いま、自分の立っているところが、「我見」という「道理」に(「万物一体の真理」清沢満之『精神界』)背く心、迷いの心を生きている「私」を知らされるご縁となるからです。

実は、それが阿弥陀仏に出遇うということ、阿弥陀仏に照らされるという意味で、「自分」に出会うということです。

普段我々は、自分の向こう側に阿弥陀仏をたてています。不安があって、その不安を阿弥陀仏が救うという発想になっています。私の不安と阿弥陀仏とが、二元対立的な関係になっているのです。実は、不安が阿弥陀仏の呼び声であり、不安が私の実相、「迷い」を気づかせる契機となるのです。私の「ありのまま」を照らし、知らせるハタラキを阿弥陀仏と呼ぶのですから、まさに不安が、「私」―「我見」を知らせる阿弥陀さんです。

親鸞聖人は「無数(むしゅ)の阿弥陀ましまして」(「浄土和讃」『真宗聖典』四八八頁)と言われます。実はこの世の一切の出来事、私の心の動きまでが、私の生き方を問いかけ、私の実相を気づかせるハタラキかけであるということです。

二〇一六年を振り返って、どこで阿弥陀さんと出会えただろう。どんな自分と出会ったのだろう、と自問している年末です。

(桑名組・西恩寺住職 二〇一六年十二月下旬)

023 「らい予防法」廃止二〇年、 ハンセン病問題が問うてくるもの

訓覇 浩

二〇一六年も残すところあと一ヵ月となりましたが、今年は、ハンセン病を患った人を療養所に終生隔離し、患者やその家族に多大な被害を与え続けた「らい予防法」が廃止されて二〇年の節目の年でありました。

そこであらためて、ハンセン病隔離政策がもたらした被害に、向き合ってみたいと思います。

「つらくて、いたい。台の上に上がったときに器具の音を聞きながら気を失った。子どもを引きずり出された。顔をたたかれて目が覚める。鼻も口もガーゼで押さえらればたばたしている赤ちゃん。へその緒が波打っていた。髪の毛が真っ黒だった。子どもが殺される。看護婦は子どもをもって走っていってしまった。その時の医師はこういった。「園の規則まで破って、子どもをつくって恥ずかしくないのか」水さえ飲ませてもらえなかった。その悔しさは忘れられません」

ハンセン病回復者で、ハンセン病療養所で現在も暮らす女性が、強制堕胎させられた経験を自ら語られた言葉です。

私たちの国は、一九〇七年から一九九六年まで、九〇年にわたって、ハンセン病を患った人を一生療養所に閉じ込めるという「ハンセン病絶対隔離政策」を行ってきました。その政策が与えた被害は、「ひとりひとりの全人格、全人生にわたる」被害と表現されますが、その中でも、断種・堕胎は、最も酷い仕打ちであると、多くの入所者が語られます。

また、隔離政策は、入所者と家族、ふるさとを断絶しました。家族・ふるさととは人間にとって、私としていのちを受ける根源、託生の根源です。

さらに、園内では本名が奪われ「園名」を名のらされてきました。これは、「その人をして社会の中で生活することが許されないものとの自己認識を強いる」ためになされたと確かめられています。本名が奪われるということは、その名によって紡いできたあらゆる人間関係が奪われるということであります。

ハンセン病隔離政策は、自らのいのちのルーツであるふるさと、家族を奪い、子孫を残すことを拒絶し、さらにその人が「自分自身」であることをも奪おうとするものであったと言えます。まさしく、人間としての尊厳、独尊性そのものに向けられた刃であったのです。

今日は詳しくお話しすることはできませんが、真宗大谷派は、この隔離政策の非道さを見抜くことができず、隔離は救済であるとして、隔離を受容することを入所者に語ってきました。それは、大きな隔離政策への加担といえます。

そのような自らの歴史に向き合いながら、隔離の被害を受けた方の声をしっかりと聞き、隔離されてきた人、隔離してきたものが、共に解放される道を求めてまいりたいと思います。

(三重組・金藏寺住職 二〇一六年十二月上旬)

022 その「はじめ」

藤井 慈等

今年も親鸞聖人のご命(明)日、十一月二十八日を迎えます。この日を「御正忌(ごしょうき)」といって、真宗本廟は勿論(もちろん)、全国の真宗寺院でもこの日を期して報恩の法会(ほうえ)、いわゆる報恩講がお勤まりになります。

さて、親鸞聖人の亡くなられたその時のご様子を、覚如上人の『本願寺聖人伝絵(でんね)』では、「頭北面西右脇(ずほくめんさいうきょう)に臥(ふ)し給(たま)いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。時に、頽齢(たいれい)九(きゅう)旬(しゅん)に満ちたまう」(『真宗聖典』七三六頁)と、その九十年のご生涯をいわば「ただ念仏一つ」のご生涯として、感銘深く頂き直されているのであります。

ところが、そのような覚如上人のいただき方とはちがった趣(おもむき)を感じさせるのが、親鸞聖人の連れあいである恵信尼(えしんに)さまのお手紙、『恵信尼消息』なのであります。これは、親鸞さまが亡くなられたことを、お子さまの覚信尼(かくしんに)さまが母である恵信尼さまにお手紙をもって知らされるわけでありますが、それに対するお返事なのであります。しかし、娘・覚信尼さまのお手紙がどのようなものであったのか、それは残っていないので分かりませんが、親鸞聖人の九十年のご生涯、その最後のお姿に、娘さまが何らかの疑問、不審を抱いておられたことが推察されるのであります。

それというのも、お手紙には「昨年(こぞ)の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかに見候(そうら)いぬ」(『真宗聖典』六一六頁)と。そして「何よりも、殿の御往生、中々、はじめて申すにおよばず候う」(同頁)とあるのです。つまり「殿」、すなわち夫である親鸞さまが、「往生なされたことは、今更言うまでもないことです」間違いないことだと、わざわざお答えになっておられるからであります。

そしてそれに続くお返事には、親鸞聖人二十九歳の時、比叡山を下りられて、六角堂に百日こもられた出来事、そして夢告(むこく)をうけられたこと、更には法然上人のもとに百日通われ、「生死(しょうじ)出(い)ずべきみち」(『真宗聖典』六一六頁)を確かに聞き取られたという、法然上人との出遇いが取り上げられているのです。つまり、人と生まれ、そして道を求めて歩まれた、その出発点、いわば親鸞聖人の「出世の大事」を、母と子がその人の死を通して、その「はじめ」にたち帰ることを確めておいでになるということです。

ご承知のように、蓮如上人は『白骨の御文』において、「それ、人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに」(『真宗聖典』八四二頁)と、浮き足だって立つべき大地を見失っている私たちに、「死」を我が身の死として、「後生の一大事」(同頁)を呼びかけてくださいます。

このように、報恩講は、私たち真宗門徒が何を大事な課題としているのか、その「はじめ」の一歩を確かめる、一期一会のご法事としてお勤めする事が願われています。その歴史が、今日まで脈々と伝えられてきている、そのように思うことであります。

(南勢二組・慶法寺住職 二〇一六年十一月下旬)

021 報恩講に寄せて

伊藤 英信

久しぶりに、テレホン法話の依頼を受けました。十一月一日から十五日まで発信されますが、初日の一日は私の誕生日であります。日中戦争、太平洋戦争、そして戦後の貧しさや経済成長、伊勢湾台風や東北の大震災など、様々なことがらとの出会いの人生を歩んでまいりました。家族はもとより、様々な人々との出会いを通しての日々でもありました。親鸞聖人に「そくばくの業(ごう)をもちける身」(『真宗聖典』六四〇頁)というお言葉がありますが、八十余年の年月を今日まで生きてこられたことに不思議さを感じております。

さて、お霜月、ご正忌(しょうき)、報恩講などの言葉が、最近は私達の生活から見失われようとしております。そのことは、物が豊かになるのとはまるで反対のように思われてなりません。以前、「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」という言葉が真宗本廟(ほんびょう)の法要テーマに用いられたことがありました。このことが明らかにならない人生は、結局「空しく過ぎる」ということなのでしょう。

今、ふと今はなき米沢英雄先生の言葉が浮かんでまいります。「如来大悲のただ中に生かされている私たちではないか。太陽・月・雨風・宇宙一切の働きによって生かされて生きている点では、草木も虫も、犬や猫も同じなんだな。だが彼らは如来大悲によって生かされて生きていることを悲しいかな知ることはできないんだ。それを知ることができるのは人間だけなんだ。しかも、仏法を聴聞した人だけなんだ」と叫ぶように言われました。そして、犬猫同然の人間を真の人間にして下さる方々を師主知識だと教えて下さいました。日常の私にとって忘れがちなお言葉であります。

今月二十一日から始まる真宗本廟報恩講には、親鸞聖人のお姿と向き合いながら私自身の八十余年の人生を振り返り、その背景を憶念しつつ同朋の皆様と一緒に心の底から恩徳讃を歌わせていただこうと思っています。

(四日市組・本誓寺住職 二〇一六年十一月上旬)

020 いのちの願いを聞く法要

伊藤 康

私がお世話になっている善行寺があるいなべ市藤原町古田には、数年前からサル、イノシシ、シカなどの山の動物が集落にやってくるようになりました。ただやって来るわけではなく、村の方々が作られた、農作物を食べ荒らしていくのです。

せっかく苦労して作った野菜や米を無断で食べられてはたまりません。そこで、檻を仕掛け、捕まえることにしましたら、次から次に沢山のイノシシやシカが入ってきたそうです。

さて、その動物はどうするのかというと、刺し殺したのち、処分場に埋めるそうです。

二年前、ご門徒から、あまりにも沢山の動物を殺し、心苦しいから、お寺で供養をしてくれないかと頼まれました。そこで、「獣供養」として皆さんと共にお勤めをすることになりました。しかし、引き受けたものの、私の中では、この法要は一体どういうお参りなのだろうかと考えさせられました。

そもそも、動物が人里に出てくるようになったのは、人間が材木を売るために植林をしたが、値段が安くなり、山の手入れをしなくなったためであるとか、農業以外の現金収入のために勤めに出て、山に人が入らなくなった為であるなど、様ざまなことが言われています。

しかし、どちらにせよ、その時々の人間の都合によって引き起こしているのです。それを、作物を荒らすからと、またも人間の都合で「害」獣にして殺してしまう。

私たちは、他の生き物や植物の命をいただいて、命をつないでいます。しかし、この殺処分では、命をいただくことはありません。邪魔だから殺して処分しているのです。それをしてはいけないとは、誰にも言えないことでしょう。ですが、他の生き物を殺すことは許されることではありません。

このことは、現代社会を生きる私たちの姿をうつし出してくれています。罪を犯しているのに、それは仕方のないことなのだと、自分たちの都合で正しいことにしているのです。お詫びをすればよいのでしょうか、感謝すればよいのでしょうか。そんなことではすまされないでしょう。

この「獣供養」で、人間の都合にしか立てない私たちが、他の生き物を殺し、悪を犯し続けねば生きていけない身であることを知らされました。そして、そのことを悲しみ続けてくださる全ての生きとし生けるものの「いのちの願い」、全ての死んでいった「いのちの呼び声」を聞かせていただくしかないことを、皆さまと共に確かめさせていただきました。

(三講組・善行寺 住職代務者 二〇一六年十月下旬)

019 仏道としての農業

金津 正嗣

自然農法を提唱し、その第一人者の福岡正信さんの著書に『わら一本の革命』がありますが、その本に大感動を受け、出会ったのが三十数年前になります。その後、定年前でしたが、NHKの「プロフェッショナル」という番組で、青森のリンゴ農家の木村秋則さんの農法を知り、定年後、無肥料・無農薬の米作りを始めるきっかけとなりました。

木村さんも、福岡さんの自然農法に出会われた一人でした。今の慣行農法について「人間欲望の拡大追随で、自然から離反し、科学の発達に伴ない、目標も、手段も多様化し、無限に苦労が増大する」と、福岡さんは言い切られています。まさに、今ある農業の現状だと思います。特に、米作りにおいては、イネの性質、特質によらず、仕事の都合で早く収穫し、夏の最中に稲刈り、果たして自然なのでしょうか。

この大自然は、真理そのものであり、万物が生かされている。人知も、人為も加えない自然そのままの中で没入し、自然とともに、生き生きと生きる農法で、自然が主体で自然が物を作り、人間はこれに奉仕をする立場を取るだけである。人は自然を知り尽くせない、自然に手を加えない、何もやらないと一切人力無用を述べられています。

この事実を知り、私も、耕さない、雑草を活かす、持込まないを基本に、農業を始めて八年が過ぎました。

「自然法爾(じねんほうに)」この言葉は、親鸞聖人が重視された言葉ですが、自己の計らいを捨て、阿弥陀如来の誓いに生きる。大宇宙の真理の中で生かされていることだと思います。

真宗門徒として、教えと農業をどう考えるのかが、生活者としての私の毎日、自然に対して、適切に関わることであります。自然の摂理に従い、そのすべての恵みをいただくことの農法を楽しむことと思っています。

毎年、加賀の大聖寺教区の「農家の奉仕団」に参加をさせていただいていますが、ご講師、加賀の農家の皆さんとの毎年の出会いを楽しみにしています。

この奉仕団は、本山同朋会館で、二泊三日の研修ですが、農業を通して、その道を歩まれた方をご講師として、膝を交えての座談会を行なっています。ご講師のすばらしい体験を知り、今まで知り得なかった事実にも出会いました。こうして農業をやったことで、この様な出会いを、ご縁をいただいている事に感謝するしかありません。

私にとって、生活の中で「本当のことを知らないと、本当でないことを本当にしてしまう」安田理深(りじん)先生の言葉が、いつも浮かんできます。

自然環境の自然観察から、いろんな発見、また気づくことが、自然からの問いかけ(意志)を自覚できると思っています。仏道としての農業をこれからも歩んで行きたいと思っています。

(三重組・三嶽寺門徒 二〇一六年十月上旬)

018 アメリカ大統領ヒロシマ訪問

門野隆芳

一九四五年(昭和二〇年)八月、人類史上初めて広島と長崎の二都市に原子爆弾が投下されてから七十年。長い年月を経た今年(二〇一六年)五月二十七日、伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)で三重県を訪れていたアメリカのオバマ大統領が、サミット終了後、原爆投下国の現職大統領として初めて被爆地ヒロシマを訪問しました。

大統領を温かく迎え入れた広島市民の姿にも心を打たれましたが、その時の大統領の演説で、

「未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの始まりの地として知られることでしょう」

という言葉を発信しました。

このオバマ大統領のヒロシマ訪問と演説は、ヒロシマのあるべき姿を改めて世界中に示し、核爆弾の悲惨さを伝えるところから、少しずつでも核兵器の縮小・廃絶へとつながる目覚めの一歩となり、これから人類の歩む道を、誤りなきものとするための歴史的な意義のある出来事であったと思います。

また、被爆者代表としてオバマ大統領と対面した坪井さんは、

「被爆者の思いをぶつけるだけでは伝わらない。分かってもらえなければ意味がない。だからそれを乗り超えてこそ未来が見えてくる」

と語られました。

この思いに至るまでには、今日までどれほどの苦しみ、悲しみを背負い続けてきたのかわかりません。そして未来に向けて核兵器を廃絶する国際署名運動をし、世界を動かそうと坪井さんは次の一歩を踏み出しています。

顧みれば、私たちの宗門(真宗大谷派)は、一九九五年(平成七年)に、「不戦の決議」を行い、二〇年を経た昨年(二〇一五年)には、世界の真の平和を希求した「非戦の誓い」を表明しています。

釈尊の説く「兵戈無用(ひょうがむよう)」(『真宗聖典』七十八頁)の教えのとおり、本来は、兵隊や武器は無用であり、世界の誰もが戦争のない平和な世界を願っているにもかかわらず、私たち人類は、今でも核を持ち続け、核兵器の抑止力に依存しています。

現代は、戦争に向かおうとする社会状況に似ていると言われます。こういう時であるからこそ、私たちには原爆による世界唯一の被爆国の務めとして、核兵器を必要としない、二度と戦争をしない平和未来の実現に向けて、一人ひとりが小さな一歩を踏み出し、社会で起きる様々な事象を凝視し、関わり続けることと、ヒロシマを深く心に刻みつけ、世界に訴え続けていく大きな使命があるのだと思います。

(中勢一組・萬福寺住職 二〇一六年九月下旬)

017 『いのち』

石川 加代子

「あんた、どうしてる?」

離れて暮らす娘に、母の電話はいつも決まってこう切り出します。

私の実家は、いわゆる老々介護で、6年前から寝たきりになってしまった父を、少し耳の遠くなった母が一人で介護していました。

そんな母からの電話は、いつも一方通行で、自分の言いたいことだけを伝えると、こちらがまだしゃべっていてもお構いなしで、ぷつんと切れてしまうことが常でした。私は、その「あんた、どうしてる?」に、母の思いがいっぱい詰まっていることを気づいていましたが、「耳の遠いのは長生きの証拠」と、どこかでそんな風にたかをくくっていました。

そしてその日も、「あんた、どうしてる?」と電話をかけてきて、いつものように私の言葉が終わらない内に、電話は切れてしまいました。けれども(しかし、)その電話の数時間後に、母は還らぬ人となってしまいました。

「寝たきりの父をおくってから、母には少し楽をしてもらって・・・」と、私が描いていた勝手なストーリーとはうらはらに、電話同様、あまりにもあっさりと逝ってしまいました。・・・。大きな悔いだけが残りました。

それから半年後、母の後を追うように、父が逝きました。

長い間の闘病生活を終えて、父は安堵の表情を浮かべているようでした。その安らかな顔に対面した時、ようやく父に、そして先に逝った母にも、心の底から、本当に心の底から「ありがとう」と言えた瞬間でした。

母が逝き、父が逝き、そしてやがて私も逝くであろう・・・世界。すべてのいのちが還りまた生まれていく、そのおおらかな流れの中で、いのちは誰のものでもなく、決して計ってはいけないし、計りようのないもの。そして永遠に引き継がれて続いていくもの。だれもが皆、同じ一つのいのちを生きているのだと思いました。

人は、ただひたすらに生きるだけ、それだけで充分なのだと・・・。

かけがえのない人の死は、私にそんなことを教えてくれているようでした。

(員弁組・西方寺坊守 二〇一六年九月上旬)

016 母の手

本田武彦

先日、実家の母の見舞いに行った。

琵琶湖と比叡山を見渡せる病院に、もうずいぶん長い間、私の母は暮らしている。母は心を病んでいるために、一般の社会で生活することが困難なのだ。

その兆候は、私が思春期を迎えた頃からあったようだ。しかし、私は母の言動に少々違和感があっても、あえて無関心を決め込んでいた。実際その頃の私は、あって当然、居て当たり前の家族のことなどまるで顧みることはなく、むしろ重く、面倒なものとして目をそらし続けていた。

やがて母の頭の中にある世界は、私たちが思い描くそれとは大きく異なるものになっていった。他の人には聞こえないものが聞こえる母には、自分以外の誰もが、何か間違いを犯しているように感じるらしかった。

その後、家族内での様々な葛藤の末、母はこの病院の住人となった。正直ホッとした。しばらくは見舞いに行くことすら避けていた。

もしその後、仏の教えに出会うことがなければ、私は未だに母をただの厄介者だと思っていたかもしれない。だがそもそも母の存在がなければ、私は仏の教えに耳を傾けるような自分であっただろうか。分かり合いたくてもどこまでも共感出来得ない相手から、それでも逃げることができないという厄介さが、実は私という存在をどこまでも問い、動かし続ける働きとなっていたのだ。

母を厄介者だとする私は、全く傲慢である。仏の教えに触れることで、傲慢にして矛盾に満ちた自分であることをいよいよ思い知らされる。だが、そういう自分であると知らしめられるからこそ、どこまでも明るく開かれた、すべての存在を包み込んで余りある仏の世界を求めずにはいられない。そこに立ってはじめて、母に頭の下がる自分になることができるのだ。

病室を後にするとき、ふと母の手が目についた。すっかり細くなってしまったその手を思わず握ると、今にも折れそうな、それでいて案外滑らかで温かな感触が、私の手の中に残った。悲しさと嬉しさの混じった何かが、深く心に刻まれたようだった。

(四日市組・蓮正寺候補衆徒 二〇一六年八月下旬)