昨年秋頃から、世界経済は百年に一度と言われる大不況に直面し、また日本では自死者が11年連続で3万人以上となったと報じられています。そのような時代社会に私たちは生活しています。
人間にはそれぞれの物差しがあり、その物差しの長さは人によって違います。善いか悪いか、好きか嫌いか、損か得か、そうして私たちは、快適で豊かになれるという思いで日常生活を送っています。
仏法は内観道とも言われます。仏の物差しに触れることによって、何が嘘か、何が真かということを見抜く眼を育てていくことが仏法です。
テレホン法話集「心をひらく」30集をお届けします。それぞれの法話から仏の眼を感じていただければと思います。
折戸芳章
「60億分の1の男になる」と宣言をして柔道界から引退をし、格闘技の世界に飛び込もうとしている北京オリンピック柔道100キロ超級の金メダリスト、石井慧選手。次回ロンドンオリンピックでも充分金メダルの可能性がある選手だけに、彼の引退を惜しむ世論の声は多い。彼が言った「60億分の1の男」とはおそらく格闘技で世界チャンピオンになることを意味していると推測するが、どんな競技であれ世界チャンピオンになるということは、とてつもない努力と精神力が必要であることは紛れもない事実でしょう。
さて、私のいただいているこの「いのち」こそ60億分の1の「いのち」ではないでしょうか。そのことを日常の生活の中で、また混迷する社会状況の中でそう実感している人が、果たしてどれだけおられるでしょうか。60億分の1の世界チャンピオンになろうとしている石井選手も、その前にすでに60億分の1の尊い「いのち」をいただいているのです。そして、この私のいのちも60億分の1の「いのち」であったことを実感し、気づかされていくことです。
あと数日で新しい年を迎えようとしておりますが、今年一年を顧みますと、いのちを軽視した様々な事件を思い起こさせられます。
「今、いのちがあなたを生きている」の御遠忌テーマには、私のいのちこそが60億分の1の尊い「いのち」であることに目覚めよとの願いが込められているのだと、自ずと頷かずにはおれません。
岩田信行
私は、今年(2008年)刑が確定した死刑囚に、2年前、広島拘置所で面会したことがあります。面会以来「罪」と「償い」について考えてきました。
そうしたある日、ある死刑執行報道で被害者遺族の声を聴いて一つはっきりしたことがあります。遺族の方々は「…当然のことです。しかし、死刑執行されてもあの人は帰ってきません。私たち家族の悲しみ怒りは、生涯、消えたり癒えたりすることはありません…」と語られていました。
私たちはこの言葉を聞いて「罪とは償えないものなんだ」とはっきりしました。「死んで償え」とも言いますが「死」をもって償えるのなら、遺族の思いが晴れるはずです。しかし、晴れないのです。それでは償ったことにはなりません。それは「殺せ」という「思い」が通っただけで、「思い」が通ってもその死が決して「償い」にはならないということです。
「償えないものが罪」なら「償い」とは一体、何がどうなることなのでしょう。みなさんはどう考えますか?
私たちは「死刑」を「制度」として必要とする国に住んでいます。それを当たり前のこと、人を殺したものはその報いとして殺されて当然のことという考え方が、この国の民意のようです。世論調査では国民の8割の人が死刑を支持していると言います。
その国にあって、私たちの宗門は1998年以来、死刑が執行されるたびに『死刑制度を問い直し死刑執行停止を求める声明』を世に発信し続けていることをみなさんもご承知のことでしょう。ある人は「きれいごとだ」と一蹴されますが、あなたはどうお考えでしょう?
この国の裁判は、12月(2008年)から犯罪被害者が法廷で被告人に質問したり、裁判官に求刑までできる「被害者参加制度」が始まりました。2009年5月からは「裁判員制度」が始まり、重大刑事事件の裁判に私たち市民が裁判員となって関わります。市民が市民を裁いて、しかも死刑判決にまで関わる世界では類を見ない裁判が始まります。
その国にあって、この国の主権者である「私たち」は果たしていかなるものとして生きているのか。真宗門徒として生きるとは、果たしてどういう意味をもつのでしょうか?「宗派声明」を改めて同朋の会で、みんなで読んでみようではありませんか。
天春克子
私は今年10月下旬に、夫の同年の8家族と一緒に、初めて沖縄に行ってきました。この8家族の親睦旅行は、毎年出かけており、もう30年余りも続いております。
最初の頃は若き時代で、子どもたちの海水浴が中心でした。最近では夫婦だけの参加となり、定番の温泉や観光地巡り、お土産物探しが中心となってきました。今回は久しぶりの二泊三日で沖縄本島を回りました。
旅行最後の三日目は、昼食をはさんで「ひめゆりの塔」を訪れました。バスに戻った時、ガイドさんが『ひめゆりの塔の資料館にも行っていただきましたか」と尋ねられましたが、みんな黙っていました。沖縄で生まれ沖縄で育ったガイドさんの声が、急に寂しくなったように感じられました。
ひめゆりの塔は第二次世界大戦の沖縄戦で、日本軍の従軍看護婦として動員され、アメリカ軍の攻撃で命を奪われた「ひめゆり学徒隊」の慰霊塔です。ここでは227名が犠牲になられたと、ガイドさんに話していただきました。そして、沖縄の言葉を一つ教えていただきました。「ヌチドゥ タカラ」それは「いのちこそ たから」という意味だそうです。
三日間バスで回っていますと、いろいろなところに戦争の傷跡が残り、アメリカ軍の基地が今も活動を続けています。沖縄の日常生活は、戦争や悲劇につながる危機にいつも直面しているのです。
戦争は、日本では過ぎ去ったことと思っていましたが、そうではありませんでした。今からは、私たちを取り巻く現実に注意深く目を開き、過去の歴史が語る声に、しっかりと向かい合っていかなければならないと思っております。
池田徹
以前お聞きした話である。列車の中で、退屈し始めた兄弟が、車内の端(はし)から端まで走る競争を始めた。何回か続いたので、そこにおられたある先生が、その子のたちの母親を睨(にら)みつけた。すると母親は子どもたちに向かって「あなたたち止めなさい」と注意した。それはその通りである。しかし、次に出た言葉が「あの恐いおじさんが睨んでいるから止めておきなさい」だったそうだ。恐いおじさんが睨んでいなければ走り回っても良い、ということではない。誰かが見ている、見ていないに拘(かか)わらず、おかしいことはおかしいと言うことが大切ではないか、事実をきちんと押さえて、注意しなければならないと思う。
今の場合、子どもたちは恐いおじさんに叱(しか)られるのが嫌だから、走り回るのを止めたとすると、自らの内なる意志で考えたのではない。不都合なことに出合わないために止めただけである。逆に考えると、叱られなければ、誰も見ていなければ何をしてもいいということになる。
こういう行動パターンが他にも、我々の生活を支配しているように思う。親が子どもに「勉強しなさい」と言う。それは大切なことである。しかし「なぜ学ぶのか」をきちんと伝えないところで「勉強しなさい、勉強しないといい学校にいけないよ」とか「いい会社に入れないよ」と脅(おど)していることがある。
自らの内発的意思で行動するのではなく「こうなったら嫌だから」「あんな風にはなりたくないから、仕方なく」また「良い人と思われたいから」とか「居場所を失いたくないから」等、不都合や嫌な状況にならないようにと、そういう心が基準となって生活が行われているのではないか。それを「手段化」された生活と言う。していることが、したいこと―目的ではないからだ。
日常生活でイライラが募る、なんとなく満たされない、不安に襲われる、人生そのものに手応えがない等、感じることがある。それは生活が「手段化」され、自己も他者も「道具化」され「利用」されているからである。そういう我々の在り方を「空過」―空しく過ぎると言われている。「今・ここ・共に」ということが欠落した生活である。
「報恩講」という仏事は、新たに親鸞聖人に出会い直すことではないかと思う。親鸞聖人の絵像の讃文に「仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うて空しく過ぐる者なし、能(よ)く速(すみ)やかに功徳(くどく)の大宝海を満足せしむ」と書かれている。言葉にまでなった親鸞である。「本願力に遇うことにおいて、空しく過ぐる者はないのだ」と言い切った親鸞である。
「手段化」する私の在り方を「空しく過ぐる」と言い当て、その虚偽性、悲惨さ、無責任さを知らせる本願の呼びかけ―存在にかけられている願い、いのちの叫びを聞きとっていくこと、「教え」に向き合うことそれが親鸞聖人の「報恩講」をお勤めすることではないか。「今・ここ・共に」を回復する生活である。
改めて「365日、毎日が報恩講」である。
芳岡恵基
今年もまた、報恩講をお迎えする時期が近づいてまいりました。私の寺でも、今月15日の晨朝から始まり、22日の女人講報恩講まで厳修させていただきます。例年、たくさんのご門徒衆と共にお迎えできることは、住職として大変うれしいことではありますが、私自身、ただ法要次第をこなしているだけになっている現状であります。
私がまだ学生の頃、ある先生から「報恩講というのは、親鸞聖人のご恩に報いる大切な法要である」と聞かせていただいたことがあります。それを聞いた時、ご恩に報いるというのは、恩返しをするということであると勘違いしておりました。一般的に、誰かに親切にされたら感謝し、何かを貰ったらお返しをします。恩を受けたら恩返しをすることが、世の中の常識になっているのではないでしょうか。
仏教でいう恩は、返すとか返さないとかいう恩ではありません。恩というのは、古いインドの言葉でクリタといいます。クリタというのは「なされたこと」という意味です。
また、報恩というのは、クリタ・ジュニャーといい「なされたことを知ること」という意味です。「なされたこと」というのは「他の誰のためでもない、この私のためだと知ること」それが、仏教でいう恩に報いるということなのであります。つまり、「恩を知る」ということです。ですから、親鸞聖人のご恩に報いるというのは「親鸞聖人によってなされたことが、他でもないこの私のためだったと知ること」なのであります。親鸞聖人に、何かをお返しするということではないのです。
では「親鸞聖人によってなされたこと」というのは、一体何なのでしょうか。それは「私たち凡夫が救われる道は、お念仏しかない」と教えてくださったことであります。私自身、凡夫の身であったことに気づかされた時、初めてお念仏の教えがこの愚かな私のためにあったと、思い知らされてくれるのではないでしょうか。つまり、事実を事実と知らせてもらった時に、初めてお念仏をいただく身となるのであります。お念仏をいただく身となり、凡夫の自覚に生きることこそ、親鸞聖人のご恩に報いることになるのではないでしょうか。
このような心で、報恩講をお迎えしたいものであります。
員辨暁
今年もまた、報恩講の時期がやってまいりました。
この「今年もまた」という言葉の中には、「またか」という私の心の中にある報恩講に対する消極的な意味合いも含まれているのかも分かりません。
ある先生がこんな話をされました。
お茶の道、茶道には茶会の心得として「一期一会」という言葉があります。これは一生に一度限りの出遇いであることを意味します。これに対して仏道では「一期一会」ではなく「一会一期」なのだそうです。たった一度の出遇いが一生の出遇いになる。あなたがどんな人生を送ろうとも決して離れることのない出遇い、これが仏道であるということです。
親鸞聖人は法然上人との出遇いによってお念仏の教えに出遇われました。そのお念仏の教えは親鸞聖人に、生きることの意義・喜び、また生きることへの意欲を与えました。
現代の私たちは、今、生きることの意義・喜びが分からず、生きる意欲を失っているようです。
今年もまた、報恩講の時期がやってまいりました。
先人たちは私たちに報恩講という仏事を通じて、大事なご縁を伝え残してくださいました。「また今年もか」という横着な私の心に「おまえは本当にそれで満足しているのか?」と、親鸞聖人から問われているようです。
片岡健
天才バカボンなどで有名な漫画家の赤塚不二夫さんが去る8月2日に亡くなられました。赤塚さんの葬儀ではタレントのタモリさんが弔辞を読み、テレビでノーカット放送されました。その弔辞を少しだけ引用させていただきます。
あなたはすべての人を快く受け入れました。そのために騙されたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち「これでいいのだ」と。
以上が弔辞からの引用です。「これでいいのだ」は天才バカボンのパパの台詞ですが、私たちはなかなか「これでいいのだ」と、物事を受け入れていくことはできませんね。何か不都合が起こると、私たちは後悔したり他人を恨んだりします。「あいつが悪い」「あいつさえ居なかったら」などと恨みと憎しみがいっぱい出てきます。そして自分自身を「重苦しい陰の世界」に閉じ込めてしまっています。
どんな状況になろうとも「これでいいのだ」と受け入れる。もっと言えば「これでいいのだ。南無阿弥陀仏」と受け入れる。これはお念仏の世界に生きるということではないかと聞かせていただいたことでした。
海雄二
今年の夏に祖母が亡くなった。
医師の診断によると老衰であり、水を飲まず食事をとることもなく、2週間ほど意識はなく、ただ、心臓のみが動いている。個人の意思とは関係なく、もう十分ではないかと思っても、止まることはない命。
その傍らで看取る私は、子どもと一緒に、祖母が息をしているのか不安に見守る中でも「腹が減った。何かないの」と自分中心で自分自身の力で生きていると錯覚していることにさえ気づかず、ただ毎日を送っている。そんな中での祖母の死。子どもたちは、最後まで祖母のそばにいて、人の死に出会った。
しかし、火葬場で火葬された祖母を見て息子は「おばあちゃんは、恐竜の化石と一緒だね」と無邪気に皆の悲しみを吹き飛ばし、娘は娘でどの部分がどんな骨なのか興味津々で観察していた。
その後二人には、あの瞬間について特に何も聞いてはいない。けれど、きっと何か感じていただろう。あの時、共にいた私自身は祖母の姿を見て恐れていた。自らが老い、そして死ぬ不安から目をそらしてしまいたかった。
しかし、逃げることはできない。逃げられない。それは、生まれ、老い、病み、死ぬことが私自身であるのだから。そのことを、自分自身の事実として受け入れていかなければならない。
このような日々の生活の不安や病老死への恐れに惑わされる生活から、事実を事実として見つめ生活していくには、何が必要なのだろうか。
蓮如上人はこのような言葉を残されている。
仏法には、明日と申す事、あるまじく候う。仏法の事はいそげいそげ(真宗聖典874頁)
この言葉は、祖母の死を通して自らを省みた時に、日ごろの忙しさに紛れる中でお念仏を忘れ、惑いの中にいる自分自身の在り方を問い、聞法していく生活が、あなたにとって大切な出発点であるのだと私に呼びかけている。
石川加代子
「ねぇ、ねぇ、ねぇ…」
彼岸花が燃えるように咲く坂道で、少し耳の遠くなった祖母に駆け寄りながら、何度も何度も呼びかけた幼い記憶がよみがえります。やっと振り返った祖母は、満面の笑顔で私の目の高さまで顔を近づけて「耳が遠くなったけんね。しっかり向かわな聞こえんよ…」
あれから数十年。夫からも子どもからも、家族全員の「ねぇ」に追いかけられる毎日です。でも、忙しさという大義名分を振りかざし、聞く前から耳をふさいでいるような有様です。
あの時、本当に聞こえ辛くなっていた祖母と、実際は聞こえているのに聞こえないふりの私。中途半端で聞いているから聞こえなかったり、自分の思いでしか聞かないから、ひどい誤解が生じたり、話の腰を折るようなことを平気でしたり、つまり、いつも自分の都合でしか聞いていない私です。
「しっかり向かわな、聞こえんよ」
毎年、田の畔に群生する彼岸花を見るたびに、その圧倒的な存在感を示す紅色とともに、祖母の言葉が呼び起こされます。いつも言い訳ばかりしている私に、生活の中で「聞く」ということを通し、自分のありようを、改めて問い返されたようでした。
真宗では「聴聞(ちょうもん)」の「聴」と「聞」の意味について述べる時、特に「聞」は「聞こえる」という時に用います。「おのずと聞こえてくる」という意味から「聞即信(聞こえた時が信ぜられた時)」と言われるほど重要な意味合いをもつそうです。
「思いを越えてそこに私があるという事実」その大切な呼び声にさえも、すっかり耳をふさいでいたようです。今一度、そのことに真摯に向かい合い、彼方からの声に耳を傾けてみたいと思いました。
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