海野真人
先日、山口県にある漁港の町、仙崎に行ってきました。ここは有名な童謡詩人金子みすずが生まれ育った町です。彼女は、熱心な真宗門徒の家に育ったこともあってか、その詩には真宗の教えを感じるものがたくさんあります。それが童謡という誰にでも分かりやすい言葉で語られているので親しみやすく、今では小学校の全教科書に取り上げられており、子どもたちもいくつかの詩を暗唱しているほどです。
サン・テグジュペリは『星の王子様』の中で「大切なものは目に見えない」と言っていますが、まさに彼女の詩は目に見えない大切なものがあることを教えてくれます。有名な『大漁』という詩などはその代表例でしょう。
蓮如上人七百回御遠忌の際のテーマは「バラバラでいっしょ」でしたが『私と小鳥と鈴と』という詩では、このように言っています。
私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のように、たくさんな唄は知らないよ。鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがってみんないい。
とても柔らかい言葉で「バラバラでいっしょ」の精神が語られているように感じます。
また、『蓮と鶏』という詩は他力の大きなはたらきを感じさせてくれます。
泥の中から蓮が咲く。それをするのは蓮じゃない。卵の中から鶏が出る。それをするのは鶏じゃない。それに私は気づいた。それも私のせいじゃない。
2003年、仙崎市にみすず記念館が建てられ多くの人が訪れています。私も家族でここを訪れましたが、日常の中ではつい忘れてしまって、目に見えるもの、それもほんの目先のことにとらわれている生活の中で、「見えぬけれどもあるんだよ。見えぬものでもあるんだよ」ということに気づかされる場所でした。みなさんも機会があれば訪れてみてはいかがでしょうか。きっといい出会いがあると思いますよ。
上杉義麿
昨年暮れに開かれました全日本フィギュアスケート選手権で優勝した村主章枝選手が、演技を終えた後「カミサマ」とつぶやいたことが先日の新聞紙上に報じられておりました。私も中継の映像を見ていて確かに村主選手の唇が「カミサマ」と動くのを見ました。また、その後のインタビューでも「優勝できたのはカミサマのおかげ」という言葉が聞かれたとも報じられておりました。私はこのことを聞き、驚きとともに大きな感動を覚えました。
既にオリンピックや世界選手権といった大きな大会で何度も賞を取り、世界で評価をされている一流のスポーツ選手です。そうした賞や評価の裏側に、どれほどの厳しく激しい努力の日々があったことか。我々は想像するしかないわけですが、それは、正しく自力を極める日々であったといえましょう。そのようにして一つの技を極めた、自力のシンボルともいうべきスポーツ選手に対して人目もはばからず「カミサマ」の名を口にする。そこに私は人間の真の姿を見た思いがいたしました。
自分の力、はからいを超えたものをある人は「カミサマ」と表現いたします。私たちはそれを「如来の他力」と申します。「他力」というと、何もかも人任せにし自分では何もしないことだと誤解されることがあります。しかし、他力の教えは自ら努力することを全く否定するものではありません。努力し、自分を鍛えることで何もできると思っていた。そして、ぎりぎりまで努力を積み重ねてきた。しかし、そこに待ち受けていたものは度重なる怪我であり、次々と現れてくるライバルたちであった。これはもう自分の力では何もしえない、何も変えることのできないことです。しかし、確かにそうした状況が目の前にある。その時人間である限り、自分の力に限界があるということに気づかされ、立ちすくんでしまします。しかし、やはり人間である以上、何かをしなければなりません。そういう状況に立たされた時、人は初めて自分の力を超えたものと向き合います。それこそが他力の教えに会うということなのです。その時向き合った如来は、よく気がついた、それでよい、それでこそ人間だ、と私たちを包んでくださり、もう一度歩き出すために後押しをしてくださいます。私たちは今生きていること、そして、後押しされて何かをなすことができるということに感謝し、また明日を生きてゆくことができるのです。
落ち込んで、またそこから自分を奮い立たせて明日を生きてゆく。考えてみればそれは日々「自分」でしていると思い込んでいることです。しかし、ぎりぎりまで追い込まれた時に、またやろう、歩き出そうとできること、これはもう自分ではない、大きな力の後押しなくしてはならないものです。私たちがぎりぎりまで追い込まれるということは、一生の内でそう度々あることではないでしょう。けれども、日々の何気ない営みの中にも、大きな力即ち他力による後押しというものが現れているのです。
今一度、大きな力に包まれて生かされ、動かされている自分、という見方で日々の自分の姿、そして営みを見直してみたい。そんな思いにさせていただいた村主選手の姿でした。
佐々木智教
今年の神社仏閣への初詣が、過去最高の人手を記録したと年頭のニュースで報じられました。ところが、自坊では年始のお参りにみえる同行の方が年々減ってきておりまして、一体どうしたことかと家族でしんみりと話し合ったことでした。
この神社仏閣の繁盛ぶりは、除災招福の考え方からきているのであろうと思います。即ち、健康で長生きして豊かな生活。皆がこぞってお参りするのは、私たちが思い描くそんな幸せへの欲求を満たしてくれそうな場所だからでしょう。しかし、同時にこの底知れない私たちの欲望追求の生活が、現在の様々な問題を生み出すことにつながっているのです。環境を壊し、人間の身と心を壊し、人と人との関係性も破壊するそんな世相の中、言いようのない不安に苛(さいな)まれている私たちなのではないでしょうか。
その不安の中にあって、これでよいのかと感じつつも、とりあえず誰かの責任にしておかなければ落ち着かない、というような風潮が世の中に蔓延している気がしてなりません。
安田理深という方は次のように述べられています。「本願の智慧が〈不安>という形で人間にきているんです。不安が如来なんです」このお言葉が、教えを必要とせず欲を満たそうとするばかりの私の宗教心に響くかどうか。その一点が、不安の上に一瞬たりとも立てない私の課題となってまいります。
白木冨美子
病気で入院している患者さんの中には、自分では何もすることができなくとも、医療関係者の方々、家族の献身的な看護によって、与えられた命を懸命に生きてみえる人がたくさんおられます。その一方では、痛々しい事故・事件・自然災害により、一瞬にして多くの命が奪われていきます。
特に昨年起こりました中津川一家殺傷事件は、加害者の年齢が私と近いこともあって、心に深く残っています。この事件は、自分を生み育ててくれた母親を、日頃から自分へ嫌がらせをしたり、他人を巻き込んで騒ぎを起こしたりするため、「一緒には生活できない」という理由で殺害しました。その上、かけがえのない子どもと可愛い孫までも、事件の後、家族ということでつらい思いをするからと殺害し、自らも死のうとしたが一命をとりとめたというものです。それは奥さんの旅行中の出来事ということで、最初聞いた時不思議に感じましたが、理由は嫁と姑の関係に問題があり、奥さんに対して不甲斐のない自分と母親を殺すことでけじめをつけようと思ったとのことです。
普段私たちの家庭でも人間関係のこじれは大なり小なりあると思うのですが、本人にとっては私たちには計り知れないたいへんな葛藤があったのでしょう。しかし、一度母親と離れて生活するとか、家族でよく話し合うとか、他に方法がなかったのかと思うと残念です。
事件後、本人を知る人たちは一様に「まさかあの人が」「優しそうで常識のある良き人だった」とインタビューで答えておりました。私たちはもし同じような状況におかれた時、冷静に判断して行動することができるでしょうか。
蓮如上人のお言葉に「人のわろき事は、能(よ)く能(よ)くみゆるなり。わがみのわろき事は、おぼえざるものなり」(真宗聖典890頁)とありますが、そこには賜った命を自分で絶ったり、ましてや他人の人生や命を自分の思いで変えようとする人間の身勝手さが問題とされているように思います。
水谷葵
昨年末から次々と痛ましく凶悪な事件が後を絶ちません。そのたびに私たちは、世の中が悪くなった、今の若者や良い大人が我が身勝手で常識が無くなったから、こんな凶悪な人が増えたのだとつぶやいています。しかし、これらの凶悪な人々の心も、私たちがお念仏を忘れ、お念仏よりもお金や名誉のほうが宝だと思い、浄土より有頂天のほうを夢見ている心と根は一緒なのでしょう。
真宗では、私たちが罪悪深重だと教えられています。しかし、私たちは自分を悪人と夢にも思いません。今年(2006年1月)の法語カレンダーに「人の悪はとがめるが自分の悪には気がつかない」とありますが、私が何かを行うことによって悪が生じるというよりは、むしろ、私が存在することそのことが悪であり罪であるのです。例を挙げれば、今日問題になっている地球温暖化の問題は、正しく私の存在がエネルギーを消失し、二酸化炭素を排出して、地球の破壊を早め、子どもたちの未来を閉ざしているのでしょう。だからといって、この生活の在り方を止めることもできません。ただ悪を作り、罪を重ねる私たちの日常性に立ち往生するばかりです。
阿弥陀様は罪悪深重な私を予め知り尽くした上で、しかも私をこの世に出してくださいました。そして、深い悲しみをもって声となって、私の開放を誓ってくださったと教えられるのです。ところが、私たちはお金や名誉を前にするとニコッと微笑む心を、息を引き取る時まで捨てられないでしょう。ただ、この事実に深く頷き、この我が身のためにお念仏が用意されてあったことをいただくばかりです。
中村英一朗
推進員研修のため本廟奉仕団として宿泊研修に参加してから7年が過ぎました。当時は無我夢中で、追い詰められた生活の中で真宗門徒としての第一歩「帰敬式」に参加し、仏弟子を名告(なの)り、宗祖親鸞聖人のご真影の前で終生聖人の御教えを問い訪ねることを宣誓したことが思い出されます。
研修は「日程に追われる受講」とあって曖昧な態度で、自ら信心を獲得し、同朋、同行としての歩みを始める自覚よりも、同朋会館での生活はとかく観光客の目で廟堂を眺めていたことを深く反省いたしております。
以後幾度かの本廟奉仕を経験し、その度に廟堂の各所から、同朋が信心の証としてその拠りどころを建立し、護持してきた信仰の深さ、大きさに気づかされます。
日々の生活では朝夕のお内仏の前で勤行や諸行事ほかの研修会には積極的に参加をいたしておりますが、宗祖は「信心の要」は如来の誓いを聞いて疑う心のないこと、この信の定まる時、往生も定まり成仏すると教えてくださっています。そして、その信心は私が獲得するのではなく如来から賜るもの、信心が得られるのは他力を憑(たの)む以外にないと、深く信ずる心をもつことであると教えてくださいます。
今、宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌の特別記念行事として「真宗本廟両堂のご修復」が進められております。これも真宗門徒の真の信心とその伝統の力の息吹の偉大さを感じ取り、これを相続することは「信心の拠りどころ」とすることではないでしょうか。
私は推進員の活動としてお寺のご協力を得て宗祖のご命日の日を「二十八日講」と名づけ、ささやかではありますが、月テーマを決め定例として「信心の拠りどころ」を確かめ合っております。課題は尽きません。けれども「聴聞を続けることが信心」との教えを思い出しながら「朋」と喜び合える聞法に精進し、その輪を広げたいと思います。
磯野恵昭
新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
この一年何事もないことを祈りたいものですが、そんなことはあり得ませんと教えてくださるのが仏法であります。また、もし何事もなければ学びの機会がないとも言えます。何を学ぶのかといえば、自分自身ということでありましょう。
私たちは何事もなく平穏に過している時、自分のことは分かりきったこととして考えています。ところが、思い通りにならないことや大きな困難にぶつかり、厳しい選択を迫られたり、道が見えず途方に暮れたりする時、思いもよらなかった心が現れてくるのです。善悪をわきまえているつもりであったのに、損をしそうになると、利益を優先したり権威にすがりつこうとする弱さ、小賢しさを知らされます。優しさや謙虚さをもっているつもりであったのに、追い詰められた途端、ひがみやねたみで相手を陥れようとたくらむ、卑劣さを教えられます。
このように、何事もない時の私はこうありたいという姿で過せるのですが、思い通りにならない現実によって、隠れていた本物の私が教えられる。この現実は「汝、凡夫なり」と呼びかける学びの場なのです。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。