「心をひらく」第28集をお届けします。法話をしてくださる方には、もちろん何度もお願いしている方も多いですが、新しい方、あまり担当していただかなかった方、坊守の方、門徒会の方にも、多数お願いしております。たいへんご苦労をおかけしました。
最近、思いますことは法話を聞くということももちろんですが、話をするということにおいても、実は育てられているのだということです。多くの先生方、先輩方ばかりか多くの見知らぬ方にさえ、私たちは育てられているということです。教団があるとすれば、これこそが教団でしょう。
念仏の教えは、いわば人々の体温の中で、育まれてきたということでしょう。
片山寛隆
先日も、今年を振り返って漢字一字をもって言い当てれば「命」ということがありました。「いじめ」の問題から自らの生命を絶つという痛ましい事象が後を絶たない、あるいは親が我が子を虐待して死に至らしめるということが何処にでもあるような世の中になってしまったと、嘆きの声も何か空虚を感じてしまう時代です。「どうしてこんな問題を起こすような子になってしまったのでしょうか。こんな子に育てた覚えはないのに」と悲痛な訴えを聞くことがあります。
我が子との関わりにおいて、親は一生懸命にがんばって育てていることには、どんな親も変わりはないものでしょう。しかし、問題が生じた時、そのことにどのように関わるかが普段の関係によって決まってくるのではないでしょうか。
子どものためと、うるさいと思われても、子どもに対して「勉強しなさい、宿題を早くしなさい」と口が酸っぱくなるほど言って育ててきましたという親があります。本当にそうでしょうか。何度も何度も言えば、子どももそれに対して応答してくれることもあれば、時と場合によっては応えてくれない時もあります。その時親は「こんなに言っているのに言うことを聞かなかったら、もう知らないよ」ということを知らず知らずの間に言っていることに気がつかないものです。
その言葉が子どもにとっていかなる言葉であるか「もう知らない」と親から突き放されたその声が、親子の断絶を親の方から宣言した言葉であることを。
子どもの悩みを親が感知できない。子どもが悩みを親に訴えられない、子どもを孤独にしている原因の一端が親にあることを考えてみたいものです。
ほとけ様は、四十八の願いを私たち一人ひとりにかけて誓ってくださいました。そして、その願いに気づき頷くまで私を心配して、私の傍らを離れないと誓ってくださいました。だから、ほとけ様のことを昔から親様と言ってきたのです。
泉有和
仏教の特徴を一言でいうと「内観」の教えであるといわれます。内観というのは内側に眼を開くことです。この肉体にある眼だけは、どれだけ努力しても自分の内を見ることはできません。この内観の眼を仏様の眼というのだと教わりました。
この眼をいただくことなしに、人間の眼だけで見ていると、何事につけ自分抜きでしか考えることができません。あの人が悪い、この人が悪いという思いでしか見ることができないというのです。「自分のことだったなぁ」と受け止めることができないのです。今の苦しみをすべて他人のせいにして、自分に原因があることに気がつかない。その心が自分を苦しめ、周りの人たちを苦しめるのです。
この前の夜、暗い中を手洗いに起きたのですが、その途中足の指をぶつけてしまい、あまりの痛さにうずくまってしまいました。我が家の板の間から畳の間の境には敷居があるのですが、それが心持ち高めなのです。普段なら引っ掛けることなどまずないのですが、その敷居に足をぶつけたのです。その時、まず浮かんだ言葉は「誰や、こんな家作ったのは!」です。寝ぼけ半分で電気も点けずですから、すり足でもして気をつけて行けばこんなこともなかったのにと思うことは思うのですが、その後から「それでもあの敷居が高かったのが悪い」という、他に責任を転嫁していく思いが湧いてきました。頭では分かったつもりでいても、どこどこまでも自分の問題を認めることのできない者がここにいたのですね。
同じ頃、テレビから「いつも誰かのせいにしてばっかりだった俺」という曲が流れてきました。湘南乃風というグループの曲だそうですが、その曲名に心が動かされました。「すみません」と頭を下げながらも、内側ではなかなかそうは思っていないのがこの私です。でも、そんな自分がお念仏をいただくというのは、難しいことではないのだというのです。「問題はこちらにあったなぁ」と、我が身の間違いない事実に気がつくだけの世界です。こんな簡単なことですが、照らされないと気づかない、内側を見る眼をいただかないと、なかなか気がつかないのですね。
仏様の教えに出遇うと、内側の眼をいただいて、素直でない身勝手な自分が見えてくるのです。人間は教えられないと、自分が悪かったということに眼が覚めないのです。
食べ物や着る物が十分にあったり、お金がたくさんあったりと、生きていく上の様々な条件が満たされれば、人間は幸せになるのかもしれません。しかし、より大事なことは何をこの身に教えられて生きるか、それがあるかないかです。内観の眼をいただいているかどうかでないかと思うことです。
松嶠律子
深まりゆく秋の景色を見ながら、夕暮れ時なぜかしら寂しく思います。若い頃、実家の方角へ沈む夕日を見て秋は何とも言えぬ、寂しさを感じたのとは別の思いです。今は私の人生と照らし合わせて見ているせいでしょうか。最近、気は若いつもりでいますが、確実に歳を感じます。目の衰えであったり、物忘れが多くなったり、ちょっとした所でつまづいたり、疲れが二・三日遅れて出てきたりだとか、そんなことが多くなってきました。つい数年前、ボランティアでお年寄りの方々と接する時、私はまだまだ若いと思い、老いなんてずっと先のことと思っておりました。もう孫がいる歳なんだし、当たり前のことなのに気持ちがついていかなくて困ったものです。秋から冬へと季節は変わっていきます。寒い冬に備え衣類や暖房と生活する上での準備はできますが、人生の冬へと向かう準備はと思うと、立ち止まってしまいます。どんな心構えが必要なのか、何をすべきなのか不安で一杯になります。そんな時、歎異抄の言葉を思い出し、道が見出せたような気がしました。
なごりおしくおもえども、娑婆(しゃば)の縁(えん)つきて、ちからなくしておわるときに、かの土(ど)へはまいるべきなり( 真宗聖典630頁)
いろいろ心配はあろうともその時が来たなら、阿弥陀様のお浄土へ往けるのです。ですから、煩悩に右往左往されながらでいい、ただ生かされている命を大切にして欲しいという如来様の願いを聞き取っていこうと思えたのです。
走り続けてきた人生、今一度立ち止まり、見つめ直し、私らしい日々を送って行きたいと晩秋の日、思いました。
田代俊孝
大根の収穫とともに今年も報恩講シーズンの到来です。全国津々浦々の真宗門徒から「五十六億七千万…」が聞こえてきます。私の地域でもお寺の報恩講が済みますと、一冬かかって各家庭で門徒報恩講が勤められます。
五十六億七千万 弥勒菩薩(もろくぼさつ)はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし 念仏往生の願により 等正覚(とうしょうがく)にいたるひと すなわち弥勒(みろく)におなじくて 大般涅槃(だいはつねはん)をさとるべし(真宗聖典502頁)
子どもたちまでが、夏休みに稽古したこのご和讃を家族と一緒に大声でお上げします。
親鸞聖人は信心をいただいた人は、やがて必ず仏に成ることが約束されている弥勒菩薩と同じだと申されました。いや、それどころか弥勒菩薩は五十六億七千万後に龍華樹りゅうげじゅ)の下で三回お説法してその暁に仏に成られるが、信心の人はこの度さとりを開くのですとおっしゃいました。
そして、このご和讃が報恩講和讃と定められていることは、報恩講が信心獲得して、弥勒菩薩と同じように「必ず仏に成るべき位」に即くことを勧める仏事であることを意図しています。その意味では、報恩講とは聞法週間あるいは信心獲得週間とでもいえましょう。また、そのことを蓮如上人は「御文(おふみ)」(四帖目第八通)で この七(しち)か日報恩講中においては、一人ものこらず、信心未定(みじょう)のともがらは、心中(しんじゅう)をはばからず改恨懺悔(がいけさんげ)の心をおこして、真実信心を獲得(ぎゃくとく)すべきものなり(真宗聖典825頁)
とおっしゃっています。「改悔懺悔」とは「歎異(たんに)」つまり、自らが法に異なっていることを歎くこと、いわゆる機の深信(じんしん)です。親鸞聖人のおおせをこうむりて、如来の法を深信して、自らが愚かな凡夫であると自覚していくことです。それを経た時に、如来大悲の恩徳が謝せられてくるのでしょう。今年も大根のお斎(とき)をいただきながら、信心獲得のため聴聞させていただく所存です。
尾畑文正
人として生まれた限り、誰でも最後の時を向かえます。最近、特に自分と同じ世代の人たちの訃報に接する機会が増えました。それだけ自分が歳を取ったということでしょうね。今年の夏に、突然、友人とお別れすることになりました。全く信じられない死の現実でした。
人は誰でも死ぬ、その絶対的現実の前に、ただただうろたえていました。その悲しみの中で、友人の死は私にとって何であったのか考えてみました。少し聞いていただきます。
人の死とは、いかなる人の死も、例外なく、二度と再び迷うことのない世界に帰るということです。煩悩をおこす必要もない身となるということでしょう。それを仏教では法の身、法身となるということです。真宗的にいえば、南無阿弥陀仏となられたいってもいいでしょう。そういう人の死の受け止め方に身を据えて、友人の死をとらえた時に、悲しみの中で、私は確信します。
人は死して必ず仏となる。その確信から15年にもわたる友人との関わりを思い浮かべてみる時に、友人は私にとっては還相の菩薩様であったと気づかされます。還相とは還来穢国(げんらいえこく)の相、つまり、仏が菩薩となってこの娑婆世界において衆生救済のおはたらきをされる姿のことです。
友人は15年もの長い間にわたって、私の目覚めを待ち続けておられたのです。ある時には企業人として、その後は私が勤める大学の学生として、そこを卒業してからは聞法会の仲間として、ずっと、この私の拙い仏教の講義をそのまま受け止めて、煩悩の底に身を埋めて、聴聞者の一人となって、私を歩まさせてくださっていたのです。私にとっては、文字通りの還相の菩薩様であったのです。そのことを友人の死によって初めて気づきました。ただひたすらその仏恩に感謝するばかりです。
今は、今生この世のご縁を尽くされ、お浄土に帰られ、私が念仏申すたびに、その念仏となって、あなたはどうなんですかと、それでいいんですかと、問うてくださっていることを思います。
伊東慧明
今からちょうど2年前の11月のことですが、生後3ヵ月ほどの子猫が私たちの家族の一員となりました。
それはご門徒のある方が会社から帰ってみると、車の下のシャフト付近で鳴き声がする。何処かで、誰かが車に捨てたのか、いろいろ分からぬままに時が過ぎ「ともかくお寺で飼ってください」となりました。ご門徒の奥さんに「名前は?」と尋ねますと「ココアです」と。とっさに私はあのコーヒーや紅茶などの飲み物を連想しましたが、そうじゃなくて「子猫ちゃん、あなたはどうしてここにおるの?どうやってここに来たの?ねえ、ココちゃん」と話しかけていて、やがてそれが「ココア」になったのだと。そして、またそれは子猫から言えば「ここはいったい何処でしょう」と。
ちょうどその頃、お寺の報恩講が勤まることになっていました。それで子猫ちゃんがお寺に来るのは、それが済んでからということにして、それまでに名前をこれからの長い一生に相応しい名前を考えよう、となりました。
そして、お寺に来てくださっている女性の方たちと、あれこれ話しておりますうちに「お寺の猫ちゃん」そして「報恩講の猫ちゃん」「そうだ、ナムアミダ仏はどうかしら」「そうだ、そうだ、それがいい」となりまして、フルネームは「ナムアミダ仏」略して「ナム」愛称は「ナムちゃん」ということになりました。
あれからもうはや2年、赤い紐の首輪をつけてもらって可愛かった「ナムちゃん」も今ではすっかり大人です。時の流れの早いこと、無常迅速を感じながら、今日もまた「ナムよ」「ナムちゃんよ」と、その名を呼びながら過しております。
南無は帰命です、帰命無量寿如来です。 帰命は南無です、南無不可思議光です。
岩田信行
お墓のことで質問を受けました。聞けば、テレビ(番組)でお墓の正しい参り方など、H・Kさんがこと細かく指南されたとのことでした。
以前も先祖の祀り方を指南して、写真の掛け方の手ほどきがあったそうです。その時も「何度言っても埒があかなかった仏間の写真の位置が様変わりした」と名古屋のお寺さん(友人)が嘆いていたのを思い出しました。影響力、はなはだ甚大のようで「なかなかイイこと言うぞ!」という評判も耳にします。H・Kさんばかりでなくテレビなどでも、M・Aさん、E・Nさんも人気で、前世を語り、怨霊や守護霊など霊魂の話、星回りの運命論やそれに基づく人生論など、耳目を集めている模様です。
ところで、阿弥陀の本願に第5願から第10願に「六神通」が誓われています。いわゆる「神通力(じんつうりき)」のことです。
もとより、最後の第10願「漏尽智通(ろじんちつう)の願」が「無我」仏智眼をあらわして、この六神通の要になります。他の五神通、これは外道(げどう)にも通ずる「通力」と言われますが、それらが仏智の裏打ちをもって「宿命智通(しゅくみょうちつう)」「天眼智通(てんげんちつう)」「天耳智通(てんにちつう)」「他心智通(たしんちつう)」「神足智通(じんそくちつう)」と古来称され、今日の私たちがイメージする「超能力」と質を全く異にしています。
それは決して空中を浮遊できるなどと言って、不思議な霊力(パワー)を誇示したり、前世を云々して他人の心を見通し手玉にとって思うままに人を操ったり、ということではありません。しかし、私たちにとっては、マジックと分かっていても物が消えたり現われたりすると「不思議だ!」とわくわくしたり、思わしくないことが続いて「どうしたんだろう?何かあるのかなぁ」と思っているところへ「霊が見える!霊が憑りついていますよ」と言われると「そんな馬鹿な」と思いつつも、どこか落ち着けずにモヤッとしたものが残ってすっきりしないというのが私たちではないでしょうか。
しかし、マジックにはちゃんと「タネ」があるように、前世や霊魂の話、運命論にはまっていく「落とし穴」がちゃんとあります。
さて、さてH・Kさんの手玉に取られていく、その落とし穴。しっかり見抜く眼を聞かしてもらいましょう。
大谷麗子
本堂の裏の香部屋にいますと道を通る人が足を止めて、道の向こう側の畑の人と大声で話している声が風に乗って聞こえてきました。
「何蒔いとるの?」
「それが彼岸に入ったで蒔けやんのさ」
「あれ、あんたとこ門徒やろ、門徒の人らはそんなこと気にせんのやと言うて、皆蒔いてやないか、私ら禅宗の者も真似しょうかと言うとったとこやのに」
といった話でした。
山間僻地の閉ざされた土地に住んでいるので朴訥(ぼくとつ)で素直な人が多く人の言葉はそのまま受け止めます。世間が狭いので回りを気にし過ぎる欠点もあり、迷信の温床でもあります。迷信と分かりきっていても昔からしていたことは止められません。
常に人の目を気にしますから、彼岸に種蒔きができないと言った人は相手が他宗の人だったから気を遣って言ったものと思われます。それが反対に私たちも真似たいと言われさぞびっくりしたことでしょう。
門徒数が他宗の三分の一程しかないこの土地では、こんなことに気を遣う人もいるのかと胸が痛みます。
でも、何故この土地に彼岸に種蒔きをしたらいけないという言い伝えがあるのでしょう。彼岸の頃は冬野菜の種蒔きに一番いい季節なのです。きっと畑仕事は毎日のことだから彼岸にしなくてもいい、お寺で彼岸会が勤まっている、種蒔きなどしていないでお寺にお参りに行って来いと言う姑の言葉が「彼岸に種蒔くな」というようになっていったのだと思います。
今のこのような現実の姿を見越したように親鸞聖人は『悲歎(ひたん)述懐』の和讃で次のように詠まれています。
浄土真宗に帰(き)すれども
真実の心(しん)はありがたし
虚仮不実(こけふじつ)わが身にて
清浄(しょうじょう)の心(しん)もさらになし
改めて身に深くいただきたいことでございます。
渡邉美和子
今年は暑い夏でした。一番下の息子も大学生になり一人暮らしを始めたので、子どもたちはお盆に帰って来ただけで、静かな食卓を夫と二人で囲んでいます。その私の目の前に真宗教団連合発行の法語カレンダーが掛けてあります。今まで気に留めたことも無かったのに、この8月の法語が気になって毎日食事の時に目に飛び込んでくるのです。
ほんとうの自分に 出会えない人生はむなしい
ほんとうの自分って何だろう、自分は自分でないのかなぁ、46年間生きてきた人生を、私はどうやって生きてきたのかなと、ひと月の間に自問自答する毎日でした。
わがままな自分や怒っている自分、思い通りになっていれば機嫌が良くて、思い通りにならないと機嫌が悪くなる。その私が子育てや介護をさせてもらって、人間として生かされてこの年まで来てしまいました。何処に本当の自分があったのでしょうか。すべてが私だと思うのですが。
「虚しい」を辞書で引くと「意義のあるもの、喜びを与えてくれるものが何もない。やってみたところでその甲斐が無い」と載っていました。
子どもたちは、たいへんさの何倍もの喜びや楽しさを私に与えてくれたし、介護も父や母のおかげでやって良かったと思うことができました。その子どもたちも手を離れ、父や母ももういません。これからの自分はどうしたらいいのか。昨年の名古屋御坊に林憲淳先生の言葉で「人間は一生かかかっても絶対に遇わなければいけない人がいるんです。けれどもなかなか遇えない。それは本当の自分なのですよ」と話されたと載っていました。
本当の自分に出会うのは難しいことのようです。ほんとうの自分に出会えるよう聞法していけたらいいなぁと、夏の終わりに思ったことでした。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。