カテゴリー別アーカイブ: テレホン法話2016年

005 寺の過去帳

岡田 豊

終戦の一年前から戦死者のずらりと並ぶ寺の過去帳

(三原市在住 岡田独甫 作)

二〇一六年一月一一日の朝日新聞に載せられたこの短歌は、前年一年間の朝日歌壇の入選歌の中から、選者の高野公彦氏が朝日歌壇賞に選んだものです。

私が住職をしているお寺の過去帳も、やはり同じようです。終戦の年に六〇歳を迎えた私の祖母は、前年の昭和一九年に住職であった夫を亡くし、戦後二二年の正月に、後に私の父となる息子がシベリアから帰ってくるまで、どんな思いでお寺を守っていたのかと思い起こされます。

村の若者が、自分の息子も含めて、次々と出征し、やがてぽつりぽつりと伝えられる戦死の知らせが、次第に続々と重なっていく。いったいこの国は、この寺は、そして自分たちは、どうなっていくのだろうという漠然とした不安さえもが戦争末期の困惑と戦後の混乱の日々の中で、時として忘れ去られ、時として頭を持ち上げてくるということであったでしょう。

お釈迦さまは「己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『法句経(ダンマ・パダ)』)とおっしゃいます。けれども、人類の歴史はいかにして戦争を避けるかという努力さえも一種のカモフラージュにして、いかにして戦争に勝つか、いかにして武力で相手を黙らせるかということに、血道を上げてきたと言ってもよいでしょう。この現実に、これが現実なのだから仕方がないとして立つならば、広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」という言葉は青臭い理想主義か、原爆だけは使ってはならぬという思いとしてしか受け取れないでしょう。

けれども、原爆死没者ばかりか全ての戦争犠牲者から、これが人間のすることなのか、それでも人間か、本当にこれでいいのかと問い返されているのだとすれば、生きている私たちに戦争を繰り返していることが、いかに罪が深いかということに目を覚まさせ、そのことを深く恥じよという、自覚を促す声なき声として戴いていくことができると思います。

たとい罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくいましますべし

(『真宗聖典(御文)』 八三二頁)

(中勢一組・傳善寺住職 二〇一六年三月上旬)

004 いのちの相

原田 はるみ

自坊の報恩講前日、庭に青磁色した葉っぱが落ちていました。その美しい葉っぱの色に魅せられて手に取ると、それはいつも見ている緑色の葉っぱの裏面でした。いつも見ていた葉っぱの違う一面を見せられて、私はいのちをしっかりと見つめていたのだろうか、と思いました。なぜなら、美しい外見だけに魅せられて手にした葉っぱは、いのちの相によって輝いていたからです。そこには不思議な感動がありました。

私は、この感動と同じような経験を幼い頃にしたことがあります。あなたのことを、仏様はいつも見ておられるよ、と言われて信じていた十代の頃、親戚や近所の人の死にたくさん出遇って「死」を意識したことがありました。自分の命がいつか亡くなると思うことが、私の心に「死」に対する恐怖心を生み出しました。「死」を意識したことにより、当たり前に過ごしてきた日常生活が、生きていること、いのちの尊さへの感動になりました。また、「生」への疑問を持つ機縁にもなりました。その頃から私は、「死」は誰もが避けられないなら、命が終わるときには穏やかに死を受け止めるようになりたいと思うようになりました。

葉っぱの一面だけを見ていた私は、いのちの輝きに出遇うことによって、仏様はいつも私を見てくださっていることを思いました。温かい感動がゆっくりと体内に流れ込み、胸の底より湧きあがってくる涙が頬を流れるのを感じました。その時にお釈迦様のお言葉「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」(『真宗聖典』一〇五頁)の世界を思いました。

私たちは外の世界に執らわれて、私を成り立たせているいのちの相に気づかないから、私の思い、計らいで生きているのではないでしょうか。「いのち」の輝きに出遇ったとき、如来の大悲の心に触れて共鳴し、いのちを心の奥から感じて、初めて私の執着心に気づかされるのでしょう。

仏様からいただいた「いのち」の相によって、生かされている私の身の事実を素直に感じ、受け止めていきたいものです。

(中勢一組・託縁寺坊守 二〇一六年二月下旬)

003 束の間の御浄土体験

野崎 紘一

「お前もとうとう来たか。わしより十五年も早いな。まっいいか」三途の川の辺で出迎えてくれた親父の第一声でした。

「浄土の世界も、シャバも同じや、新参者は先ず挨拶廻りや。案内したるでついて来いや」と祖父母に始まって、野崎家の先達を次から次へと案内してくれました。

皆さんおだやかな表情でシャバでの生活に労をねぎらう言葉をかけて下さいました。そして最後の結論は「ここに来たら、何も案ずることはない。阿弥陀さんの光をいただいて安穏に過ごすがいいぞ」とおっしゃいました。

ただ一人、全く違う事を言われる人がみえました。

「野崎さん、あんたの息子をここに止めるのはまだまだ早いんとちゃうか。この男、シャバにやり残して来たことが沢山ある筈や、現世に帰しましょに」と、その時、甲高い女性の声が、「野崎さん目を覚まして‼あなたが今みているのは幻覚よ。そちらに引き込まれたら、それこそ死んじゃうよ」と私の頬をパンパン叩くのです。

「死んじゃうよ」の一言に反応したのか目を覚ましました。

私を覗き込む顔々。キラキラ輝く瞳が何よりも喜々とした生身の人間そのものです。

「手術は成功です。それにしても麻酔薬のせん妄作用が相当でましたな。正気に戻っていただいて何よりです」

「野崎さん普段の言葉づかいと違って、それはそれは丁寧な言葉づかいでしたよ。どなたとお話をなさっていたんですか」先ほど私の頬を叩いて下さった看護士さんに言われ、私はただ苦笑いするしかありませんでした。

五年前に私が心臓手術を受けた時の実体験です。

「せん妄作用」による幻覚をみただけというには私は合点がいきません。私の心の奥底に潜んでいた意識が顕在化したのではないかと思うところです。

野崎家を取りまいた多くの先達方の御陰様で、私の今日があると実感しています。

昨年の四月、おふくろが逝きました。荼毘に付す時、「親父によろしくな」が最後の別れの一言でございました。

南無阿弥陀仏

 

(中勢一組・淨願寺門徒 二〇一六年二月上旬)

002 自利利他円満

山口 晃生

法隆寺の玉虫の厨子に捨身飼虎の図があります。これは、お釈迦様前世の物語で、修行中、森の中で出産直後の虎に出遭います。この虎は空腹のあまり今にも我が子を食べようとしていました。それを見たお釈迦様は、自ら虎の餌になろうと近くの崖に上り、そこから飛び降り、自分を殺してから餌食になり、親子の虎を救ったという有名なお話です。これは究極の「慈悲心」や「利他行」といわれます。しかし、私には今一つ納得がいきません。

私達が頂いている仏教には、「自利利他円満」という教えがあります。自分が幸せになることが他人の幸せにもつながり、他人の幸せが自分の幸せになる。お互いに幸せになり、喜び合える世界。私は、これこそが真実(ほんとう)の仏道ではないかと思います。

我が家の近くに岡山という小高い山があります。昔は焚き木を集める等、管理され遠足のメッカとしても親しまれておりましたが、高度成長期以後は荒れ放題、人も立ち入れない状態で、いつしか心無い人が壊れたテレビや洗濯機等の廃材を平気で捨てていくゴミ捨て山になってしまいました。このままではいけない。以前の様に人々が遊べる里山にしようと、二〇〇五年「岡山を愛する会」が発足しました。

私も賛同し入会。月三回の奉仕作業に取り組んでおります。しかし、一〇年の歳月は確実に力を奪います。脱会者も多く、五〇人いた会員も現在は二〇名程になり、しかも高齢化し維持管理も難しく、新会員を募るのですが一向に協力者は集まりません。寧ろほんの一部の人からは「俺らには関係ない。奴ら暇ですることがないからやっているだけや」としか見てもらえないのが残念でなりません。

郷土の宝でもある自然豊かなこの「里山」を、人々の集まる憩いの場として今後も守っていく事で、地域住民の皆さま方に喜んでもらえるのであれば、奉仕作業の苦労も報われ、私達会員皆の喜びに変わります。また、そうすることがこの地に生まれ、育てられた者の故郷への恩返しと、今日も仲間と共に額に汗して頑張っております。

(三重組・蓮行寺門徒 二〇一六年一月下旬)

001 家族葬から

田代賢治

あけましておめでとうございます。

年末の桑名別院本統寺の報恩講には、御同朋の皆さまのお力添えをたまわり、おかげさまで滞りなく厳修できましたこと、心より御礼を申し上げます。本年もまた、どうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、この時期にふさわしくない話になろうと思いますが、今の私にお話しできることは限られておるのであります。それは、私の母親、田代秀子が去る一一月一五日に九一歳でお浄土に還帰したことであります。歳が歳ですから、父母はもちろんのこと、連れ合いも早く亡くし、兄弟姉妹もすでに亡く、友人・知人も少なくなっており、「寂しい」というのがここ数年の口癖になっておりました。

それで私は、もう限られた人たちとだけの、いわゆる「家族葬」でも良いのでないかと、二つ年上の兄に相談いたしました。兄は大分県のお寺に入寺しておりまして、それを聞くなり「それは、いかんダメだ」と叱られました。それで私は、ハタと気づいたのであります。

身内だけの葬儀では、母親のいのちを狭い世界のものとして貶めることとなり、母親が如何に生き、どれだけの人たちと関わりを結んできたのか、彼女の生きた証として、彼女が最後に出来る社会的使命と責任なのだと思い直したのであります。したがって、広く「広め」をいたしました。「家族葬」は止めて、いわゆる「一般葬」に切りかえたのであります。

母親のことを思ってそうしようとしたのですが、実はそのことによって、結果的に喪主としての私自身の社会的使命と責任を果たすこととなりました。

ふだんから、いのちは「公け」のもの、いのちは「私有化」してはならない、いのちは広くて深いものと話しておりました私自身が、このていたらくでした。僧侶として慙愧するしかない、お恥ずかしいかぎりであります。

それを、母親が死をもって、私に教えてくれたことでありました。危うく大きな過ちを犯すところでした。

(三重教務所長 二〇一六年一月上旬)