梅田良惠
今受験生にとっては、最後の正念場を迎えている時期です。ある受験生のいる家にお参りに行った時のことです。大学受験を控えた女の子は試験を受ける前に、受験票をお内仏に供え、阿弥陀さまに掌を合わせたそうです。
その受験生は、なぜそんなことをしたのでしょうか。もちろん大学に合格したかったからです。でも、阿弥陀さまにお願いすれば合格できると思っていたのでしょうか。実際、その子はよく勉強もしていました。ある程度受かるという気持ちもあったようです。しかし、それでも多少の不安があったのでしょう。
後日、その子は合格通知を手にしました。なぜ、合格できたのでしょう。阿弥陀さまにお願いしたおかげでしょうか。もし、不合格だったら、阿弥陀さまの力が足りなかったということでしょうか。「自力」と「他力」という言葉があります。自力は自分の力、他力は如来の本願力ということです。私たちは困難に直面し、また自分ではどうしようもない時、自分の願いをかなえてくれる他からの力を「他力」と捉えることがあります。
真宗は如来の本願力の教えであって、他力によって私たちの願いが何でもかなうということではありません。他力を信じれば、希望する学校に合格できるということではないのです。合格であろうが不合格であろうが、一旦預けた命を他力によって生かさせていただくということです。合格したのも事実、不合格だったのも事実。その全ての事実を都合の善し悪しで決めつけている自己中心的なあり方に気づかされることが、他力を憑(たの)めたということでしょう。
困ったとき、思わず掌を合わせるということがあります。でも、そのときに今一度考えてみてください。欲望をかなえるために掌を合わせているのか、結果がどうあろうとお任せして掌を合わせているのかと。
和田 惠
仏法は、事実を事実として正しく見つめ、受け止めることから出発しますが、最愛の家族の死ほど、受け止めがたい事実は他にないのではないかと思います。必死で悲しみをこらえておられるご家族の方にお会いすると、どんな言葉も慰めにならず、かける言葉を失います。
親鸞聖人も「かなしみにかなしみをそうるようには、ゆめゆめとぶらうべからず」と言われたと『口伝鈔』(真宗聖典672頁)に述べられていますが、本当に人情の機微にあふれたお言葉であると思います。
お葬式のことを「おとむらい」ともいいますがそれは訪問の「訪」という字を書いて「とぶらう」とよんだことから変化した言葉だそうです。その言葉どおりに、村の人が亡くなると、みんながその家を訪れ、悲しみを共にしながら「我もまた死すべき身を生きている」ことを実感し、己の生き方を見つめたものであります。このように、葬式は悲しいことでありますが、決して「忌みごと」ではなく、亡き人を偲び、わが命のあり方を真剣に考えるべき法要であります。
先日、ある女性が「主人が亡くなって、ようやく四十九日の法要も済ませましたが、いまだに悲しみが薄れず、何も手につきませんが」と言われたのに対し講師の方がこんなふうに心を込めて言われました。
「貴女が悲しみのあまり何も手につかないということも、一つの事実だと思います。どうぞ思いっきりご主人のことを思ってあげてください。でも、亡くなったご主人もまた貴女のことを思い、願いをかけておられると思いますよ。かけがえのないご主人の死は『貴女がこれから生きていくことに対してどういう意味があるのか』という問いかけを残してくださったことだと思いますよ。どうぞそのこともお考えください」
私は講師のこのお言葉を聞きながら、ご本山の参拝接待所に掲げられている「亡き人を案ずる私が、亡き人から案ぜられている」という言葉を思い起しておりました。
岩田信行
昨年の暮れ、中堅機械メーカーに勤めるKさん(51歳)の話です。(朝日新聞土曜版〈2003・1・11〉」コラム「複職時代」)
Kさんが会社を代表して、取引先大手商社の元部長の葬儀に参列しました。お供えや献花も少なく、焼香も十分そこそこで列が途絶えて、寂しい葬式だったそうです。Kさんは、亡くなった元部長がまだ現役だった頃、そのお父さんの葬儀を思い出して、気分がいっそう沈んだといいます。その時は、大手商社現役部長の実父の葬儀ということで関連企業の花輪もずらりと並んで、それは盛大な葬儀だったからです。Kさんは、定年まで十年を切っていた自分自身に思いが向かいます。「オレの葬儀には何人来てくれるのだろう」と、ふと、そんなことが思われたといいます。
次の休日、古い年賀状を整理し始めたKさんは、再びそんな思いにとらわれました。500通以上の年賀状を前に、このうち仕事抜きで定年退職後でも、自分の葬儀に来てくれそうな人は何人いるだろう。来てくれそうな人の年賀状に付箋をつけてみたそうです。結果的には結構な枚数になりました。なぜなら迷った時、どうしても貼りたくなった結果で、もう一度見直すと、途端に枚数は減ってしまいました。Kさんはふと思います。「年末の忘年会も、趣味のゴルフもみんな仕事がらみ。本当の友達なんて、一人もいないのかも・・・」と。馬鹿なことをやっていると、我に返ったものの結局その日Kさんは一枚の年賀状も書けずに終わったといいます。
いろいろやっかいな人生ですが、喜怒哀楽、悲喜こもごも、辛いことも多いですが、結構にぎやかな「日常」です。しかし誰しもそんな中、ふと我に返る瞬間があります。そんな時感じる、何ともいえぬ底なしの「孤独感」「空しさ」。それを善導大師は「無人空迥(むにんくぎょう)の沢(さわ)」とたとえています。そして、大勢の中にあってなぜ孤独なのか?その理由を善導は「いつも悪友にしたがって、真の善知識に値おうとしないからだ」と断言しています。
悪友とはだれなのか?改めて、「二河白道(にがびゃくどう)のたとえ」(真宗聖典219頁)を紐解きました。
石川佳代子
人間は誰でも死ぬということは知っていても、死とはいつか向こうからやって来る「現象」だと思っていました。
ちょうど十年前のことです。身体の不調が続き、病院を訪れた私は医師から癌の宣告を受けました。三人目の子どもを出産して一年余り、当時34歳でした。突然つきつけられた身の事実に戦慄し、慟哭しました。「一年生存」「五年生存」そんな言葉で切り取られていく人生。私は命のパーセンテージだけを数え、自分の命を惜しみながらも、生きることに絶望していました。真っ暗な心で覗いた外の世界は眩しいほどに輝き、自分だけが取り残されているようでした。しかし、同時に美しいその場所は紛れもないそれまでの私の日常であり、また、不平不満を募らせていた場所でもありました。
人は平凡な日常を幸福であるとも感じずに安住し、いつも他人の不幸を客観視し、心の深い所でそれが他人であったことに胸をなでおろしているのです。けれども人生には、どんなに受け入れ難くても、受け入れなければならない悲しみも、いくらあがこうと自分の力の及ばない瞬間を感じることが必ずあるのです。
わがはからわざるを、自然(じねん)と申すなり。これすなわち他力にてまします。(真宗聖典638頁 『歎異抄』第16章)
私がそのただ中で聞いたのは、『歎異抄』のこの言葉です。しかし実際、その言葉の意味が響いてきたのは、大切な身体の一部を失い、その傷の生々しさが幾分消えてからのことでした。
私は個体的生命に執着するあまり、いのちの尊厳さを見失い、命を私していたことに気がつきました。本来の命とは、たとえその輪郭を失っても溢れ出し、きっと受け継がれていくべきものなのでしょう。私たちは、過去・現在・未来という時空を越えて、無限の願海の中に、生死を超えて「生かされている行者」であるということを初めて気づかせていただいたのでした。
加藤 滿
私たちは先祖(先に亡くなった人)の法事をします。その時には、手次のお寺にお願いして、お経を上げてもらい、そして皆で会食をして3時間ぐらいをすごし、やれやれやっと終わった、大変だったとなります。いったい何のために法事をするのでしょうか。何かやらなければならないという義務のようになっています。
その法事は儀式として、まず親類が集まり、そこでお経が上がりますが、なぜお経を上げるのでしょうか。
お経の始まりは全て「仏説」で始まります。「仏説」というのは、仏(釈尊)が説かれたということであり、仏が説かれたものを、その場に参加しているものが「聞く」ということ。そのことが法事の大事なことであります。先に亡くなった人を通して仏説を聞き、そこから私たちが救われていく道を見いだすということです。
それでは、その仏説であるお経には何が説かれているのでしょうか。
蓮如上人の御文(五帖目九通)に、
一切の聖教というも、ただ「南無阿弥陀仏」の六字を、信ぜしめんがため
だと言われています。(真宗聖典837頁)さらにお経というものは、私たちに念仏を信ぜしめんがためにあるのだと。そして、その念仏を信ずるということは、私たちが平等に助かることであると言われています。
法事とは、仏説を聞き、そこに私たちが仏の教化-教えを受ける-に出遭うということをおいて他にに何もないということでしょう。
内田龍雄
昨年の暮れ、立て続けに三組の老夫婦の諍(いさか)いに立ち会わざるをえないことになりました。
一組目は、去年の6月、一人息子さんを交通事故で亡くされたご夫婦ですが、お嫁さんとその両親との間がうまくいかないらしく、その責任は「あなたが優柔不断で、ものをはっきり言わないからじゃないの」という奥さんの言葉に始まり、過去何十年かのうっ積を洗いざらい本堂のご本尊の前でぶちまける一幕です。
二組目は、昨年の春頃からリウマチの痛みに耐えられず、辛抱できんのだと訴える主人に、「辛くても仕方がないやないの。それでも生かされていることに感謝せんと勿体ないやないの」と叱責する奥さん。
三組目は、80歳過ぎのご夫婦で、娘さんの嫁ぎ先の報恩講の後でのこと。戦死されたご主人の弟さんの墓を無縁の墓にしてまったことにまつわる信仰上の行き違いの諍い。
この三組の訴えをどちらにも加担することもできずに、じっと聞いていて思わされたことがあります。
それぞれのご主人の方はしばらくすると、第三者である私の前では、これ以上争いあうのは体裁も悪いと思うのでしょう、鉾を収めようとされるのですが、それは決して問題が解決したわけではありません。ですから時には徹底的に言いあうのも必要なのでしょうが、なんといっても大事なのは、この諍いの根元は何から来ているのかを、仏様の教えに触れることを通して見つめていくことではないでしょうか。
そこから見えてくるのは、自分自身の勝手さであり、そのことに気づく以外には諍いから生ずる苦悩の開放はありえない、ということです。この三組の夫婦との出会いは、私自身が日頃自分を中心にして生きようとしているために苦しんでいる愚かさを知らされる、尊いご縁でありました。
武井弥弘
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
さて、お正月は一年の節目です。正月一日のご挨拶に詣でた道徳に、蓮如上人は言われます。「道徳いくつになるぞ。道徳、念仏申さるべし」と。一年の節目に当たり、先ずお念仏を申すこと、「ただ念仏」ということを確認しなさい、ということでしょうか。
二ヵ月ほど前、あるお年寄りを車に乗せる機会がありました。するとそのお爺さんは、低い小さな声で「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と何度もお念仏されます。とても落ち着いたそのお念仏に、その方はどんな生活をしておられるのだろうかと尋ねてみました。すると「毎日婆さんと喧嘩ばかりしております。こればっかりはどうにも直りません」とにこやかに応えられました。いつもお念仏しているような人ならば、明るいほがらかな家庭生活がきっとあるに違いないという私の邪推はみごとに砕かれました。
私たちはついつい、お念仏を数多く申して、しかも一生懸命に称えていれば、きっと自分にとって良いことがあるに違いない、良い人間になれるに違いないと思ってしまいがちです。しかしそうではなくて、「ただ念仏」といわれるところには、数でもなく、呪文でもなく、南無阿弥陀仏というその六字が、仏道全体を表しているということをきちんと受け止めなさい、それが信心をいただくということですとおっしゃっていられるように思われます。
つまり、南無阿弥陀仏は必ず本願(誓願)が元になっており〈教〉、その本願が大行として(はた)らいている〈行〉、そしてその用らきによって私たちが呼び覚まされ〈信〉、如来の悟りの世界に往生することができる〈証〉という「教・行・信・証」というお心がすべて備わっているのだということでしょう。
しかし最近はお念仏を申す真宗門徒が少なくなったと言われます。
年頭に当たり、改めて「念仏申さるべし」というお叱りの声が聞こえてまいります。
真宗大谷派(東本願寺)三重教区・桑名別院本統寺の公式ホームページです。