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004いのちのあり方

石川佳代子

人間は誰でも死ぬということは知っていても、死とはいつか向こうからやって来る「現象」だと思っていました。

ちょうど十年前のことです。身体の不調が続き、病院を訪れた私は医師から癌の宣告を受けました。三人目の子どもを出産して一年余り、当時34歳でした。突然つきつけられた身の事実に戦慄し、慟哭しました。「一年生存」「五年生存」そんな言葉で切り取られていく人生。私は命のパーセンテージだけを数え、自分の命を惜しみながらも、生きることに絶望していました。真っ暗な心で覗いた外の世界は眩しいほどに輝き、自分だけが取り残されているようでした。しかし、同時に美しいその場所は紛れもないそれまでの私の日常であり、また、不平不満を募らせていた場所でもありました。

人は平凡な日常を幸福であるとも感じずに安住し、いつも他人の不幸を客観視し、心の深い所でそれが他人であったことに胸をなでおろしているのです。けれども人生には、どんなに受け入れ難くても、受け入れなければならない悲しみも、いくらあがこうと自分の力の及ばない瞬間を感じることが必ずあるのです。

わがはからわざるを、自然(じねん)と申すなり。これすなわち他力にてまします。(真宗聖典638頁 『歎異抄』第16章)

私がそのただ中で聞いたのは、『歎異抄』のこの言葉です。しかし実際、その言葉の意味が響いてきたのは、大切な身体の一部を失い、その傷の生々しさが幾分消えてからのことでした。

私は個体的生命に執着するあまり、いのちの尊厳さを見失い、命を私していたことに気がつきました。本来の命とは、たとえその輪郭を失っても溢れ出し、きっと受け継がれていくべきものなのでしょう。私たちは、過去・現在・未来という時空を越えて、無限の願海の中に、生死を超えて「生かされている行者」であるということを初めて気づかせていただいたのでした。

003法事に思う

加藤 滿

私たちは先祖(先に亡くなった人)の法事をします。その時には、手次のお寺にお願いして、お経を上げてもらい、そして皆で会食をして3時間ぐらいをすごし、やれやれやっと終わった、大変だったとなります。いったい何のために法事をするのでしょうか。何かやらなければならないという義務のようになっています。

その法事は儀式として、まず親類が集まり、そこでお経が上がりますが、なぜお経を上げるのでしょうか。

お経の始まりは全て「仏説」で始まります。「仏説」というのは、仏(釈尊)が説かれたということであり、仏が説かれたものを、その場に参加しているものが「聞く」ということ。そのことが法事の大事なことであります。先に亡くなった人を通して仏説を聞き、そこから私たちが救われていく道を見いだすということです。

それでは、その仏説であるお経には何が説かれているのでしょうか。

蓮如上人の御文(五帖目九通)に、

一切の聖教というも、ただ「南無阿弥陀仏」の六字を、信ぜしめんがため

だと言われています。(真宗聖典837頁)さらにお経というものは、私たちに念仏を信ぜしめんがためにあるのだと。そして、その念仏を信ずるということは、私たちが平等に助かることであると言われています。

法事とは、仏説を聞き、そこに私たちが仏の教化-教えを受ける-に出遭うということをおいて他にに何もないということでしょう。

002愚かさに気づかされていく道

内田龍雄

昨年の暮れ、立て続けに三組の老夫婦の諍(いさか)いに立ち会わざるをえないことになりました。

一組目は、去年の6月、一人息子さんを交通事故で亡くされたご夫婦ですが、お嫁さんとその両親との間がうまくいかないらしく、その責任は「あなたが優柔不断で、ものをはっきり言わないからじゃないの」という奥さんの言葉に始まり、過去何十年かのうっ積を洗いざらい本堂のご本尊の前でぶちまける一幕です。

二組目は、昨年の春頃からリウマチの痛みに耐えられず、辛抱できんのだと訴える主人に、「辛くても仕方がないやないの。それでも生かされていることに感謝せんと勿体ないやないの」と叱責する奥さん。

三組目は、80歳過ぎのご夫婦で、娘さんの嫁ぎ先の報恩講の後でのこと。戦死されたご主人の弟さんの墓を無縁の墓にしてまったことにまつわる信仰上の行き違いの諍い。

この三組の訴えをどちらにも加担することもできずに、じっと聞いていて思わされたことがあります。

それぞれのご主人の方はしばらくすると、第三者である私の前では、これ以上争いあうのは体裁も悪いと思うのでしょう、鉾を収めようとされるのですが、それは決して問題が解決したわけではありません。ですから時には徹底的に言いあうのも必要なのでしょうが、なんといっても大事なのは、この諍いの根元は何から来ているのかを、仏様の教えに触れることを通して見つめていくことではないでしょうか。

そこから見えてくるのは、自分自身の勝手さであり、そのことに気づく以外には諍いから生ずる苦悩の開放はありえない、ということです。この三組の夫婦との出会いは、私自身が日頃自分を中心にして生きようとしているために苦しんでいる愚かさを知らされる、尊いご縁でありました。

001念仏申さるべし

武井弥弘

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて、お正月は一年の節目です。正月一日のご挨拶に詣でた道徳に、蓮如上人は言われます。「道徳いくつになるぞ。道徳、念仏申さるべし」と。一年の節目に当たり、先ずお念仏を申すこと、「ただ念仏」ということを確認しなさい、ということでしょうか。

二ヵ月ほど前、あるお年寄りを車に乗せる機会がありました。するとそのお爺さんは、低い小さな声で「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ」と何度もお念仏されます。とても落ち着いたそのお念仏に、その方はどんな生活をしておられるのだろうかと尋ねてみました。すると「毎日婆さんと喧嘩ばかりしております。こればっかりはどうにも直りません」とにこやかに応えられました。いつもお念仏しているような人ならば、明るいほがらかな家庭生活がきっとあるに違いないという私の邪推はみごとに砕かれました。

私たちはついつい、お念仏を数多く申して、しかも一生懸命に称えていれば、きっと自分にとって良いことがあるに違いない、良い人間になれるに違いないと思ってしまいがちです。しかしそうではなくて、「ただ念仏」といわれるところには、数でもなく、呪文でもなく、南無阿弥陀仏というその六字が、仏道全体を表しているということをきちんと受け止めなさい、それが信心をいただくということですとおっしゃっていられるように思われます。

つまり、南無阿弥陀仏は必ず本願(誓願)が元になっており〈教〉、その本願が大行として(はた)らいている〈行〉、そしてその用らきによって私たちが呼び覚まされ〈信〉、如来の悟りの世界に往生することができる〈証〉という「教・行・信・証」というお心がすべて備わっているのだということでしょう。

しかし最近はお念仏を申す真宗門徒が少なくなったと言われます。
年頭に当たり、改めて「念仏申さるべし」というお叱りの声が聞こえてまいります。

036あとがき

『心をひらく』第24号をお届けします。

浄土真宗のみ教えは、仏に遇うこと、それは「自己を知れ」ということが基本です。それは、禅宗が教える公案の「父母未生以前、本来の面目」を知れという、生まれる前の自分を知れというものとは違って、どんなに教養のある人でも、その根性をみてみれば「色気に食い気に体裁」で生きているという罪悪感を強調するものと言えるでしょう。

こと日常の生活そのものから教えられる我が身とは、どろどろした本当に計算高い、救われない身であります。だからこそ、如来さまが救わずにはおかないとご本願を建てられたご苦労がしのばれてくるのです。人間そのものを誤魔化しなしに見据えられた仏さまの眼に遇うことによって、ようやく一歩が歩めるのではないかと思います。

この小冊子がみなさんの聞法の一助になることを念じております。

035同朋とは?

片山寛隆

今年はワールドカップで夏の幕が開き、日本中がサッカーに熱中しました。まさか、日本チームがあれほど善戦するとは夢にも思っていませんでしたが、現実には16強に仲間入りするという快挙を挙げ、日本中大フィーバーしました。

日本が16強に入った時に某知事がテレビのインタビューで「このワールドカップを日本で開催したことは日本人にとって民族と国家ということを体験できた良い機会だった」と発言していましたが、その後、日本が敗れても、民俗を越え国家を越え、最後まで応援したことは周知の事実です。

ところが、準決勝の前日に韓国と北朝鮮との間に海上でのトラブルがあり、準決勝を前にして「ワールドカップに水を差す北朝鮮を許せない」という、北朝鮮を非難する声が世間で充満しました。

しかし、私たちは忘れてはいないでしょうか。北朝鮮も含んでのワールド(世界)ということを…。思いを共有するものだけ、利益を共有するものだけが仲間ではありません。過去に我々日本では、「同胞一和」という言葉のもとに他を排除し、仲間意識を強要して過ちを犯してきました。

仲間意識に捕らわれる「同胞(はらから)」ではなく、親鸞聖人が思いを越え、利害を越え、血を越えて、真実の教えを共にする「同朋」ということを、今一度尋ねねばなりません。

034風風ふくな しゃぼん玉とばそ

桑原範昭

8カ月になる孫とキーライトというオルガンのような楽器でよく遊ぶ。色々な曲が入力されていて、ライトの点くキーを押すだけで曲の弾けない私でもさまになるから不思議である。孫も分かっているのか分かっていないのか、勢いよくキーを押しては無邪気にはしゃぎ喜ぶ。日がら、眠ったり笑ったり泣いたり、喜び悲しみを全身で表す、いのちそのものが躍動しているように見える。

臨床心理学者の河合隼雄さんが「心の自然破壊」ということを言っている。人が死ねば悲しい、人を傷つけると自分の心が病む、そんな心の自然のはたらきが働かなくなった。人間の心を流れている川の水が枯れたり、流れなくなっているのではないか、というのだ。心の自然破壊は、自然界の破壊を招き同時に公害という人間への報復を生んだ。またそれは、多発する犯罪という形でも表れている。

例えば、3才の女の子を餓死させた事件があった。この飽食日本での出来事だ。21才のその子の両親が逮捕された。

中国の孟子は言う「人にはだれにも忍びざるの心あり」と、それは他人の不幸を見過すごすことのできない心を言う。一言で言えば、いのちに対する畏敬の心であろう。人間であるならばこの心が必ずある、というのである。

大正期に作られた童謡「しゃぼん玉」を思い出す。3才の愛娘を失った野口雨情の愛惜の詩に、中山晋平がメロディーをつけたものだ。「しゃぼん玉とんだ 屋根までとんだ 屋根までとんで 壊れて消えた」空の青さとまわりの景色を映して舞い上がっていくしゃぼん玉が目に浮かぶ。しかし、その明るい感じが二番の歌詞からがらりと変わる。「しゃぼん玉消えた とばずに消えた 生まれてすぐに 壊れて消えた」しゃぼん玉とはいのちのことを言うのであろう。当時、貧しさのためにまだ地方に間引きの風習が残っていたと言われる。その詩には、無心にしゃぼん玉をとばす子を見て、その子の健やかな成長を願う親の心と、幼くして亡くなっていったいのちへの悲しみが込められているのであろう。「子どもの魂よ、天へまっすぐ昇って幸せになってね」と。「風風ふくな しゃぼん玉とばそ」

033迷い

渡辺勝美

過日、知人から姉の家に不都合が起こるのは、実家の墓相が悪いからだと、だから直してほしいと週末毎に家に来る。そんなことで不都合が起こるとは思わないけれども、話は一方的でこちらの話は通じないし、憂鬱である、どうしたら良いだろうかと、相談を受けました。

みなさまはどう思いますか。

私にも同じような経験があります。以前、母に「どうかく」とかいうできものが腰の所にできて、大きく腫れあがり、痛そうでした。医者に行くように言ったのですが、どこで聞いてきたのか知りませんが「矢合観音の井戸水をつけると治るから行きなさい」と勧められたと言って聞きませんでした。「治るはずがない」と言っても納得しません。結局、その水をつけても痛みは引かなかったのでしょう。病院で治療を受けて治りましたが、こういう時、なかなか聞く耳を持たないのが私たちではないでしょうか。

相談を受けた知人は、真宗のご門徒であると言われるので、お姉さんが見えたら「家の不都合が墓相と関係があるかどうか、私は分からないので、住職さんに一緒に聞かしてもらいましょう」と貴方が誘って、お寺へ行ってくださいとお勧めしました。後日、報告を受けましたが、住職様は丁寧に話してくださったそうで、その後はその話で来られることはなくなったそうです。

こんなことは日常的なことのように思うのですが、如何ですか。例えば病院での「四」「九」という数字を嫌ったり、退院、結婚、納車、葬式等の日を選ぶように、真実の根拠を尋ねることなく、そのことにとらわれ、迷ってしまう私があるのでしょう。しかし、よく考えてみると、迷いは外にあるのではなく、外に起こった出来事を縁として、惑う私にあるようです。些細なことに執われ、迷う私自身を自覚させられるに、仏法に出遇い、目覚めるということがあるのではないでしょうか。改めて、惑う私に気づくご縁でもありました。

032報恩講のこころ

森英雄

家を造って便所を作らないと人は住めません。人生における便所は何か。要求、怒り、愚痴、ねたみ、恨み、劣等感、敵視など様々な感情も含めた複雑な心であろうかと思います。この便所から臭いがするようでは、家に居ても落ち着きません。臭いの元を絶たなければ、人としてお付き合いもできません。その為に便所には浄化槽というものがあります。

私たち人間にはお念仏の道が仏さまから用意されています。この恨みつらみの宿業(しゅくごう)を嫌っていては、自分で自分が好きになれませんし、相手を警戒しながら付き合うことにもなり、安心して生きてはいけません。この「ただ念仏一つで助かる」という尊いみ教えも自分の姿を思い知らされるということがなければ絵に描いた餅にしかなり得ません。

では、どうするのか。恨みつらみのその感情が起こってきた時、この時がチャンスだとおっしゃる訳です。普段何もない時、私たちは感情が平穏ですから、他人が怒りにまかせてものを言っているのを聞いた時、「そんなに怒らなくてもいいのに」と相手を非難します。そのように、上から解ったような顔をするように仏さまが私たちの心に入ってくださって、どんなに傲慢かを教えてくださっているのです。このお心に気づかされた時、私たちは生まれて初めて自分の本当の姿に驚きをもって出会うこととなります。

この時初めて、仏さまが私の業の中に入って、長い間苦労されていたこと「五劫思惟(ごこうしゆい)の本願」が身にしみて感じられてまいります。

そうなって初めて自分の業を拝める身にさせていただけるのです。

自分の業の身を誰でも拝めるようにさせてくださる用(はた)らき仏さまといい、そのお仕事を身に感じて、その尊さを忘れないようにと報恩講が、毎年勤められています。

031報恩講

服部了惠

「報恩講」というのは、私たちの、浄土真宗をお開きくださった、親鸞聖人のご命日の法要のことです。親鸞聖人のみ教えをいただく、真宗門徒にとって、報恩感謝の心を表す、大切な法要であります。

『歎異抄』に「一生のあいだもうすところの念仏は、みなことごとく、如来大悲(にょらいだいひ)の恩を報じ徳を謝すとおもうべきなり」(真宗聖典635頁)とあります。「報恩の心」とは、物や知識によって得られる「所得の豊かさ」ではなく、この私の「存在の豊かさ」に、気づいていくことではないでしょうか。

外国のある詩人が、こんなことを書いています。「もし、あなたが詩人であるならば、この一枚の紙の中に、雲が浮かんでいることを、はっきりと見るでしょう。雲なしには、水がありません。水なしには、樹が育ちません。そして、樹々なしには、紙ができません。ですから、この紙の中に雲があります。この一ページの存在は、雲の存在に依存しています。紙と雲は、きわめて近いのです…この小さな「一枚の紙」の存在が、宇宙全体の存在を表しています」(ティク・ナット・ハン『仏の教えビーイング・ピース』)

この文章にある「一枚の紙」とは、あなたであり、私を指しているのです。私が生きているということは、私以外の、一切のあらゆるものと繋がって、私として生きているのであります。

毎日毎日、目の前のさまざまなことに、振り回され、流されている私たちですが、それを一番根っこのところで支え、私が私として、生きることを成り立たせている、大きないのちのはたらきがあるのです。この大いなる如来の大悲の中に、私が生かされていることに目覚めたとき、初めて、報恩感謝の生活が開けてくるのではないでしょうか。